an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

聖書の「原典」についての考察

 聖書の「原典」というテーマに関して、非常に表層的かつ初歩的な誤解が浸透しているようなので、簡潔に説明してみたい。

 まず第一に、厳密な意味での「原典」というものは存在しない。つまりモーセやエズラ、パウロやルカといった聖書記者直筆のオリジナル原本は、残存していない。存在するのは、オリジナル原本から手書きで写されたと判断された数々の「写本」である。新約聖書の分だけでも、時代や字体(大文字、小文字など)、写本の材料(パピルスか羊皮)など様々違いを持った5306の写本がある。その大量の写本を聖書学や考古学などの専門的研究によって一字一句検討・照合し、まとめたのが所謂「原典」と呼ばれている「底本」である。

 旧約聖書においては、

  • 『キッテルのビブリア・ヘブライカ』
  • 『ヒブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシア』(ドイツ聖書協会)

 新約聖書では、

  • 『ネストレ・アーラント』

が信頼性ある底本として数々の聖書学者によって認められて利用されている。

 現代語訳の代表的な聖書は、これらの底本を基に翻訳したものである。例えば日本語訳聖書に関しては次の通りである。

  • 口語訳:旧約聖書の底本はルドルフ・キッテルのビブリア・ヘブライカ三版、新約はネストレ二十一版。
  • 新改訳:旧約聖書はキッテルのビブリア・ヘブライカ七版、新約聖書はネストレの校訂本二十四版に基づく、四十二名の翻訳者による翻訳である
  • 新共同訳:旧約聖書「ヒブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシア」、新約「ギリシャ語新約聖書(修正第三版)」(聖書協会世界連盟)、旧約聖書続編「ギリシャ語旧約聖書」(ゲッティンゲン研究所)

 底本の版が更新しているのは、新しい写本が見つかったり、聖書学における研究の最新の成果が慎重に反映されているからだ。しかもこれらの底本には、旧約聖書「ギリシャ語旧約聖書」所謂「七十人訳」や公認本文(テクストゥス・レセプトゥス)など、様々な文書のバリエーションの有無が脚注によって確認できるシステムを用いている。この点からも「底本」というものが、大部分のところは決定的であるが、更新や修正、比較照合のマージンをもたない絶対的な存在ではないことが判る。

 このわずかな「緩さ」にさえも戸惑いを覚える人もいるかもしれないが、本来神だけが持ちうる絶対的権威を、限られた人間が持っていると勘違いしてしまう愚かな誤りを回避させるための神の憐みであると思う。聖書学的な根拠さえないのに、ある特定の「原典」に絶対的権威を与えようとする愚行から、神を知りたいと願う魂を守るための義なる神の知恵である。

 聖書を読むのに大切な心とは、聖書を通して人に語リかけられる神の前で遜り、少年サムエルのように祈ることであろう。

Ⅰサムエル3:10

主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。