an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

My Way?

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「酒は人間の最悪の敵かもしれない。

でも聖書は『汝の敵を愛せ』って言ってるだろ」 

フランク・シナトラ

 イタリア人の血を引く、二十世紀を代表する歌手が、実際にこの言葉を言ったかどうかはわからないが、彼の悪戯っぽい表情が想像できるから面白い。おそらく、イタリア人の多くの年金生活者が、午前中からバールに集まってワインを飲みながらカードゲームやっているのを見慣れているからかもしれない。もし彼が生きていて、クリスチャンの誰かが、「シナトラさん、済みません。聖句の引用がかなり強引ですよ。聖書には『酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです』とも書いてありますよ」なんて言った日には、

“Oh, no, oh, no, not me,

I did it my way” 

と歌いながら、軽くはぐらかされてしまうだけかもしれない。(実際、青空マーケットに行ってキリストの福音の話をすると、そのような「元気のいい」イタリア人のおじいさん達に会える機会も少なくない)

 未信者の方のこのような聖句引用なら、苦笑いで済ますことでも、ことクリスチャンの間では事態は異なってくる。勿論冒頭の例のように、あざけりのニュアンスで御言葉を自己の欲望を肯定するために利用することはないだろうが、多くの場合、無意識にそのようなことが行われているのだ。

 この件に関して、鋭い省察を含んだ記事があったので、目を通していただきたい。

『神の戒めと愛』http://www.logos-ministries.org/blog/?p=4538

 

 私達のイエス・キリストは、全宇宙を創造した主なる神、あらゆる権能を持っておられる方であり、神の言そのものである方だ。そして彼が「道」である。

ヨハネ14:6

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

 そして神の御言葉は、自分の行きたい道を突き進むための「葦の杖」ではない。その上で身を伸ばしくつろぐために与えられた自己肯定の「象牙の寝台」でもない。むしろ、そこから私達を立ち上がらせ、キリストの道、十字架の友の道を歩ませる力であり、導き手である。

Ⅱテモテ3:13-17

13 悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。 

14 しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、 

15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。 

16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 

17  それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

  聖書を学び、確信を得、それに親しむことによって、私達は救いに至る神の知恵を得ることができる。その聖書の知恵はまた、私達を教え、戒め、正しくし、義に導き、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者にするため働きかけてくるのである。

 まさに神の言は生きていて、力があるのだ。