an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

幸いな人(2)詩編1

 昨日、兄弟姉妹と共有していてさらに示されたので、もう一度この素晴らしい詩編について書いてみたい。 

詩編1:1-6

1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。 

2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。 

3 このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。 

4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。 

5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。 

6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。

  この詩編を通して、私達の目の前に二つの「道」が示されている。一つは主イエスによって備えられた救いに至る道、もう一方は滅びに至る道である。一見、この二つの道は平行に走っていて同じ方向に向かっているようだが、決して交わることはなく、それぞれの到着点は全く異なる。問題は、滅びに至る道の方が広く、歩きやすく、多くの人が歩いているから「安全な道」だと思ってしまうことである。

 マタイ7:13,14

13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 

14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。

  このような危険が目の前にあるからこそ、神は私達の救いのために、数々の「道路標識」を備えてくださったのだ。そして道路標識が、色や明暗のコントラストで瞬時に識別できる明確な指示を発するように、この詩編も百五十篇にも及ぶ詩編全体の始まりに、強烈なコントラストを放ちながら私達を救いへ至る道に導いている。

 まず「善ー悪」のコントラストである。昨日の記事で、一節にある三つの否定詞による明確な境界線について触れたが、実はこの二節と三節を挟んで、この詩編の後半の部分にも同じように三つの否定詞があり、意図的な構成がなされているのである。日本語訳では少々わかりにくいので、英語のキング・ジェームス・バージョンを引用してみる。

Sal 1:1 Blessed is the man that walketh not in the counsel of the ungodly,

nor standeth in the way of sinners,

nor sitteth in the seat of the scornful.

2 But his delight is in the law of the Lord; and in his law doth he meditate day and night.

3 And he shall be like a tree planted by the rivers of water, that bringeth forth his fruit in his season; his leaf also shall not wither; and whatsoever he doeth shall prosper.

4 The ungodly are not so:

but are like the chaff which the wind driveth away.

5 Therefore the ungodly shall not stand in the judgment,

nor sinners in the congregation of the righteous.

6 For the Lord knoweth the way of the righteous: but the way of the ungodly shall perish.

(太字は引用者による)

  最初の三つの否定詞が「善と悪」「命に至る道と死に至る道」「神による喜びと罪による喜び」などの境界線を引く役割があるとしたら、二番目の否定詞のグループは、神の悪に対する裁きを示す、よりアクティブな否定である。この二つの「NO」のグループの間に「幸いな人」を記述することによって、私達の注意を神が「YES」と言っている祝福へと誘う。ある人々は、このように白黒はっきりした啓示に苛立ち、反発したりするのだが、人間の弱さをご存じの神の「親心」を考慮に入れていないからである。

 次は、「多ー少」のコントラストである。この点に関しても、残念ながら日本語バージョンでは伝わってこないが、イタリア語のように単数・複数が厳密に分かれている言語だと、原文のニュアンスが明確に表現されている。(今の時代は、ネット上で聖書の原文と各国の言語の対訳を検索できるので、大変便利になった)。一節の「幸いな人」が単数であるのに対して、「悪しき者」「罪びと(原義:道を外した人)」「嘲る者」はすべて複数形である。確かに「命に至る道」を見出し、それを歩く人は、「滅びに至る道」を歩く人の数に比べて、圧倒的に少ない。だからこそ、神は色々な方法で私達の注意を引き、全ての人が救いの道を見出せるように語りかけてくださるのだ。

 次に「真ー偽」のコントラストである。一節にある三つの動詞「歩く、立つ(立ち止まる)、座る」で理解できるように、悪は私達を偽りの安定、偽りの安らぎへ引き込もうとする。神に従っていこうとしている人を卑下して自己肯定する嘲りの座に、私達がくつろぐのを喜ぶ。しかし「幸いな人」は 、主のおしえを喜びとし(直訳:その人の喜びは主の教えの中にあり)、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。つまり、御言葉の中に自らの平安と喜びと生きがいを見出し、どんな時でも「その中」にいたい、と願うのである。ちょうど、ベタニヤのマリヤが主イエスの足元で彼の御言葉を聞き入っていたように。

ルカ10:38-42

38 一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。 

39 この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。 

40 ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。 

41 主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。 

42 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。 

 この「真の安定と偽りの安定」のコントラストは、この詩編においてシンボルとして用いられている二種類の植物によって、より明確に理解できる。「流れのほとりに植えられた木」と「風の吹き去るもみがら」である。川に近くに植えられた(直訳:移植された)木は、地深く根を張り、いつでもその根から水分を取ることができるから、日照りの時にも枯れることはない。

エレミヤ17:7,8

7 おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。 

8 彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ。

 これは、神の恵みによってキリストの中に「移植」された人を表現している。荒野で枯れかけて薪として使われそうになっていた木が、自分で歩いて行って最適な場所を見つけたわけではない。神が私達を生ける水の流れる川のほとりに移植してくださったのだ。そして根が水を求めてより深く、より広く地中に伸びていけばいくほど、その木は台風が来ても津波が来ても大丈夫なのである。

 対照的にもみ殻は、わずかな風でもあちこち吹き飛ばされてしまう。元々小麦などと一体となって育つが、脱穀の段階で小麦ともみ殻は選別される。当時は適度な風が吹く丘の上で脱穀し、何度も何度も巨大なフォークのような農具で空中に持ち上げては、風に任せて小麦ともみ殻を選別していたのだ(Ⅰ歴代誌21章に登場するオルナンの打ち場がエルサレムの丘の上にあったのは、そんな機能的な理由があった。ダビデ王はその土地を買い取り、やがてソロモンの神殿がその場所に建造されることになる。現在、イスラム教の「岩のドーム」がある「神殿の丘」と呼ばれている所である)。

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 そしてもみ殻が風で吹き飛ばされて、土となってしまうのと対照的に、川のほとりに植えられた木は、神の喜ぶ実を結ぶ。三節の「栄える」と訳されている原語は、「貫き通す」という語義も持つ。確かに、主イエスの力によって、どのような状況においても御言葉を愛し、御言葉に生き、御言葉の中のみにとどまり、最終的な救いに至るまでそれを「貫き通す」希望に満ちた計画が、信じる者に与えられている。何という恵みだろう。

 そして最後のコントラストは、「救いー滅び」である。クリスチャンの中でも、この明確なコントラストを否定し、「恵みの中にいるから」「神は愛である」と言って、道に迷っている人のためにある道路標識を取り去ろうとする人がいる。『全ての道はローマに通ず』という諺には、ローマ帝国の力を誇り、人類文明の基礎としての自意識が隠されている知ることは、この世の王国ではなく神の国に仕える人にとって重要である。また、道を教えてくれる人のすべてが、本当に道を知っているわけではなく、道案内をしてくれる人のすべてが、目的地に連れて行ってくれるわけではない。自分が神の恵みによって救いに至る道を見出すことができ、そこを歩いているのなら、なぜあなたをその道に導いた標識を取り除こうとするのか。なぜ曖昧な標識と取り換えるのか。

ヨハネ3:16-21

16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 

17 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。 

18 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。 

19 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。 

20 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。 

21 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。 

ヨハネ3:34-36

34 神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。 

35 父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。 

36 御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである。 

申命記30:19

わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。