an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

神の時

創世記40:14、15、23; 41:1

14 それで、あなたがしあわせになられたら、わたしを覚えていて、どうかわたしに恵みを施し、わたしの事をパロに話して、この家からわたしを出してください。 

15 わたしは、実はヘブルびとの地からさらわれてきた者です。またここでもわたしは地下の獄屋に入れられるような事はしなかったのです」。 

23 ところが、給仕役の長はヨセフを思い出さず、忘れてしまった。 

41:1  二年の後パロは夢を見た。夢に、彼はナイル川のほとりに立っていた。

使徒24:27

さて、二か年たった時、ポルキオ・フェストが、ペリクスと交代して任についた。ペリクスは、ユダヤ人の歓心を買おうと思って、パウロを監禁したままにしておいた。

 冒頭に引用した聖句で、創世記の方は、青年ヨセフが奴隷として売られた家の主人の妻の企みによって、冤罪で投獄されていたときのストーリーである。ある夜、エジプト王に罪を犯し、ヨセフと同じ牢獄に入れられていたエジプト王の給仕役と料理役が、それぞれ夢を見、ヨセフは神の知恵によってそれぞれの夢を解き明かした。そして、三日後のパロ王の誕生日に、ヨセフが解き明かした通りのことが起き、料理役は処刑され、給仕役は元の職に戻ることができた。十四節にあるように、ヨセフは解き明かしが成就することを確信していたので、給仕役に自由の身になったら自分のことを想い出してここから出れるように助けてくれ、と懇願した。二十三節は実に痛々しい。

ところが、給仕役の長はヨセフを思い出さず、忘れてしまった。

 次の句は四十一章に一節に移る(余談になるが、聖書では章句が数字で振り分けられている。これは原典にはないもので、便宜上、後で取り入れられたシステムである。場合によっては、文脈の理解を邪魔する区切りかたなどもあるので、文脈を意識した通読法はとても重要である。一日何章か読んで一年間で聖書を通読するというプログラムがあるが、個人的意見としては、状況や場面、内容などで文脈ごとに区切りながら通読した方が、聖書理解には有益だと思う。例えば、ルカ十五章の一節から十七章十節までをひとまとめにして、「神の義と人間の義の対比」という文脈で読み、解釈する方法などがある)。

41:1(新改訳)それから二年の後

 ヘブライ語原典では、「二年の日々の終わり」とあり、この「日々」という単語は、ある期間が完全に終わることを意味し、つまりここでは「丸二年」という意味である。キングジェームス訳やイタリア語聖書は、そのニュアンスを正確に訳している。

KJV And it came to pass at the end of two full years

 ヨセフが牢獄の中で忘れ去られていた期間が、丸二年であったことが判る。ヨセフは、恩知らずの給仕役の記憶がパロの夢によって呼び起こされるまで、丸二年、七百三十日間も牢獄で忘れられていた。やっと牢獄から出れるようなきっかけとなる、神による確かな働きがあったのに、待っても待っても実際に神は牢獄の扉を開いてくれない。ヨセフは解き明かしの際、栄光をすべて神に帰したのに、神はまるでそのようなことを見なかったかのように、沈黙している。この二年の期間の前の十年間以上の期間について、聖書は繰り返し、神がヨセフと共におられたことを証ししている。

創世記39:2,3,21,23

2 主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。

3 その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。 

21 主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた。 

23 獄屋番は彼の手にゆだねた事はいっさい顧みなかった。主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた。

  しかしこの二年間に関しては、聖書は何も語っていない。しかし、主はヨセフと共におられ、ヨセフが絶望的な状態においても自暴自虐になって神への信仰を失うことがない様に彼を支えていた。そうでなかったら、再び夢の解き明かしするためにパロの前に立たされたヨセフは、とっさに解き明かしすることも、神に全ての栄光を帰すこともできなかっただろう。

創世記41:14-16

14  そこでパロは人をつかわしてヨセフを呼んだ。人々は急いで彼を地下の獄屋から出した。ヨセフは、ひげをそり、着物を着替えてパロのもとに行った。 

15 パロはヨセフに言った、「わたしは夢を見たが、これを解き明かす者がない。聞くところによると、あなたは夢を聞いて、解き明かしができるそうだ」。 

16 ヨセフはパロに答えて言った、「いいえ、わたしではありません。神がパロに平安をお告げになりましょう」。 

 「神がパロに平安をお告げになりましょう」というヨセフの福音、良き知らせが、牢獄にいる間、ヨセフが神から来る平安によって支えられていたことを語っている。

 冒頭で引用したもう一つの句、使徒行伝の聖句は、キリストの福音に反対していたユダヤ人たちによって命の危険に曝され、擁護の目的も兼ねてエルサレムで捕えられ、カイザリヤに連行された使徒パウロが、二年間の監獄の生活を強いられた理由が記されている。ヨセフの監禁とは違って、ある程度の自由が与えられていたが(23節)、それでも当時のローマ総督ペリクスの「ユダヤ人の歓心を買おう」「ユダヤ人に恩を売ろう(新改訳)」という政治的策略によって、二年も牢獄に入れられていたのである。エルサレムからアンティオキア、小アジア、ギリシャに至るまであらゆる町で福音宣教し、多くの異邦人を救いに導いた神の器であった使徒パウロを、神はローマ総督の卑しい策略通りに時が経過するのをゆるされた。ローマでの宣教どころか、地中海の向こう側にあるスペインまで福音と伝えたい、と燃えていたパウロの熱い思いを無視するかのように、神はパウロが解放される見込みもないまま、カイザリヤの牢獄に閉じ込められているままにされた。

 コップに入れられた濁った水も、時間が経つと中の混入物が沈殿し、澄んだ水が得られるように、様々な人間の策略や恩知らずな行為、裏切り、利己心などが働きかけ、私たちの人生が行きたくない場所に引っ張られていったり、とどまりたくない状態に閉じ込められたりすることがあっても、「神の時」が経つと、私たちに対する澄みきった神の想いや計画が見えてくる。

 この「二年」を「恩知らずな者の忘却の時」「卑しい権力者による策略の時」ととるか、「神の時」と受けいれるかは、私達次第である。