an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

心が騒ぎ立つとき

詩篇62

1 聖歌隊の指揮者によってエドトンのしらべにしたがってうたわせたダビデの歌

わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救は神から来る。

2 神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしはいたく動かされることはない。

3 あなたがたは、いつまで人に押し迫るのか。あなたがたは皆、傾いた石がきのように、揺り動くまがきのように人を倒そうとするのか。

4 彼らは人を尊い地位から落そうとのみはかり、偽りを喜び、その口では祝福し、心のうちではのろうのである。〔セラ

5 わが魂はもだしてただ神をまつ。わが望みは神から来るからである。

6 神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしは動かされることはない。

7 わが救とわが誉とは神にある。神はわが力の岩、わが避け所である。

8 民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。〔セラ

9 低い人はむなしく、高い人は偽りである。彼らをはかりにおけば、彼らは共に息よりも軽い。

10 あなたがたは、しえたげにたよってはならない。かすめ奪うことに、むなしい望みをおいてはならない。富の増し加わるとき、これに心をかけてはならない。

11 神はひとたび言われた、わたしはふたたびこれを聞いた、力は神に属することを。

12 主よ、いつくしみもまたあなたに属することを。あなたは人おのおののわざにしたがって報いられるからである。

新共同訳1987

1 【指揮者によって。エドトンに合わせて。賛歌。ダビデの詩。】

2 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。

3 神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。

4 お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。亡きものにしようとして一団となり/人を倒れる壁、崩れる石垣とし

5 人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。常に欺こうとして/口先で祝福し、腹の底で呪う。〔セラ

6 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。

7 神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。

8 わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。

9 民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。〔セラ

10 人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。

11 暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。

12 ひとつのことを神は語り/ふたつのことをわたしは聞いた/力は神のものであり

13 慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と/ひとりひとりに、その業に従って/あなたは人間に報いをお与えになる、と。

 新共同訳は、原文における2節と6節(口語訳や新改訳だと1節と5節)の微妙な違いを明確に訳出している。

2(1) わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。 

6(5) わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。

 2節が肯定文なのに対して、6節は詩篇記者ダビデが自分の魂に対して語りかけている命令文である。この違いには、一人の人間としてのダビデの心が実にリアルで顕れていて興味深い。なぜならこの二つの文の間には、ダビデの周囲の人間に対する辛辣な言葉があるからである。

お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。

亡きものにしようとして一団となり/人を倒れる壁、崩れる石垣とし

人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。

常に欺こうとして/口先で祝福し、腹の底で呪う。

  つまり「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」と信仰的な告白をした後に、周りの人間が自分を甘言によって欺き、裏で策謀し、自分を貶めようとしていることにダビデの心は騒ぎ立っていた。だからこそ、「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ」と自分の魂に言い聞かせるように命じているのである。

 同じような心の動きは、詩篇42篇にも見受けられる。

詩篇42

1 聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子のマスキールの歌

神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。

2 わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか。

3 人々がひねもすわたしにむかって「おまえの神はどこにいるのか」と言いつづける間はわたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。

4 わたしはかつて祭を守る多くの人と共に群れをなして行き、喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。今これらの事を思い起して、わが魂をそそぎ出すのである。

5 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。

6 わが魂はわたしのうちにうなだれる。それで、わたしはヨルダンの地から、またヘルモンから、ミザルの山からあなたを思い起す。

7 あなたの大滝の響きによって淵々呼びこたえ、あなたの波、あなたの大波はことごとくわたしの上を越えていった。

8 昼には、主はそのいつくしみをほどこし、夜には、その歌すなわちわがいのちの神にささげる祈がわたしと共にある。

9 わたしはわが岩なる神に言う、「何ゆえわたしをお忘れになりましたか。何ゆえわたしは敵のしえたげによって悲しみ歩くのですか」と。

10 わたしのあだは骨も砕けるばかりにわたしをののしり、ひねもすわたしにむかって「おまえの神はどこにいるのか」と言う。

11 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。 

 信仰者の心が自分自身を含めた人間の不誠実や偽善に騒ぎ立つとき、心のうちに宿る聖霊が語りかけてくださる。「沈黙して、ただ神に向かえ」「神を待ち望め」と。

神の栄光の希望の確かさ

ローマ5:1-8(新改訳)

1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、

4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。  

 「この希望は失望に終わることがありません。」 新改訳や口語訳には時間の経過のニュアンスがあるが、原語の時制の観点によれば以下のバージョンの方のほうがよりダイレクトで適切に思える。

岩波委員会訳

希望は〔私たちを〕歎くことはない。

 

前田訳

この希望は恥をかかせません、 

 ただ日本語の表現として「希望は歎(なげ)くことはない」「希望は恥をかかせない」は使わないだろう。要するに「神の栄光の希望」は、「今の段階では確かではないが、やがて訪れる未来において、最終的には確かなものになるだろう」というタイプのものではなく、「今現在、そして未来も確かなもので、信じる私たちを決して失望させない」というニュアンスである。

 この希望の「今」における確かさは、二つの重要な真理によって支えられているものである。それは「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」ということと、「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられる」ということである。つまり「今この瞬間に、信じる者の心には聖霊が住み、今この瞬間に、御子の十字架の死を通して、神の愛を明らかに示している」という真実である。

 私たちが聖書を何章も読んだからでも、誰かを助けたからでもなく、御子の死によって神の愛が世に示され、御子の復活によって聖霊が下り、その愛が注がれ続けていることが、希望の確かさの根拠である。つまり裏返して言うならば、私たちが調子が悪いから、罪を犯してしまったから神の愛が覆われ、希望がその確かさを失うのではない。

 今現在の私たちの感情や印象で、変わらぬ神の愛の光を覆ってしまわないよう注意しよう。

二つの問いかけ

ルカ10:25-37

25 するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。

26 彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。

27 彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。

28 彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。

29 すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。

30 イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。

31 するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。

32 同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。

33 ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、

34 近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

35 翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。

36 この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。

37 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。

律法学者の問い:「私の隣り人とは誰のことですか」

御子イエスの問い:「誰が強盗に襲われた人の隣り人になったか」

 何度も繰り返し読み、このブログにおいても何回か記事にしているテーマだが、省察する度に新しい光が私の心を照らす箇所である。

 律法学者の問いは、「私」が自分以外の全ての人を自分の基準で選別しようとする。反対に御子の問いは、強盗に襲われた人が「私」を試しているのである。またこの「強盗に襲われた人」は、「病気で苦しんでいる人」でも「孤独に打ちのめされている人」でも「自己欺瞞に陥っている人」でも同じ意味をもつ。「私」がどのような人かを選別するのではないのである。

 「誰が~の隣り人になったか」。こう問いかける御子自身、試す目的で近づき質問をした律法学者の隠れた動機を見抜きながらも、彼のことを拒否せず、最も誠実なアプローチで「律法学者の隣人」となったことで、一つの例を示している。

 

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「取税人や罪人の友」

ルカ7:31-35

31 だから今の時代の人々を何に比べようか。彼らは何に似ているか。

32 それは子供たちが広場にすわって、互に呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった』と言うのに似ている。

33 なぜなら、バプテスマのヨハネがきて、パンを食べることも、ぶどう酒を飲むこともしないと、あなたがたは、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、

34 また人の子がきて食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。

35 しかし、知恵の正しいことは、そのすべての子が証明する」。

ルカ15:1-2

1 さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。

2 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。  

 「取税人、罪人の仲間」 

 「仲間」と和訳されている原語【φίλος / philos】は、「友」(ルカ11:6;ヨハネ3:29;11:11;ヤコブ2:23参照)という意味をもつ。「取税人、罪人の友」。しかもこの表現は、御子に従っている人々の口から出たものではなく、むしろ御子を敵視し、妬み、殺そうとしていたパリサイ人や律法学者の口によって、侮蔑と嘲笑の意味を込めて広められた言葉であった。というのは、実際にこれらの宗教家たちは、御子イエスが取税人や罪人たち、つまりユダヤ人会堂を中心とした社会・宗教共同体からつま弾きにされていた人々と共に食事をしているのを見ていたからであった。

 「食事を共にする」という行為は、「一緒に同じものを食べる」という物質的要素以上に、「交わり」「共有」という精神的意味をもっていたから、パリサイ人や律法学者は決して取税人や罪人と呼ばれていたカテゴリーの人間とは食事を共にすることはなかった。彼らにとっては、穢れることを意味していたからである。

 勿論、御子イエスが取税人や罪人と共に食事をしていたのは、彼らの罪や倫理的問題を容認していたからではなかった。宗教家の偽善に対しての断罪と同じように、御子は貪欲や姦淫に対する断罪を告げ、同じく悔い改めを求めていた。

 御子がなぜ彼らと食事をしていたかは、御子自身が答えている。

マタイ9:9-13

9 さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。

10 それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。

11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。

12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。

13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

ルカ5:30-32

30 ところが、パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った、「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか」。

31 イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。

32 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。 

 イタリアで【Dimmi con chi vai e ti dirò chi sei.】という格言があるが、「一緒にいる人を見れば、その人なりがわかる」という意味である。だが霊的次元に適用するならば、少々単純すぎるかもしれない。

 終わりの時の信仰者が認識しなければいけない危険は、「義人の友」と人々に呼ばれることを求める欺瞞と、互いに御前で悔い改めを探し求めない「罪びとの馴れ合い」ではないだろうか。

黙示録3:14-22

14 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。

15 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。

19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

22 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』

Ⅱテモテ4:1-5

1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。

2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、

4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

5 しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。

恥をもいとわないで十字架を忍び

へブル12:2

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。  

 「恥をも厭わないで」(新改訳:はずかしめをものともせずに)

 「恥 【αἰσχύνη / aischunē】」の日本語の意味は、「1.恥じること。自分の欠点・失敗などを恥ずかしく思うこと。」または「2.それによって名誉や面目が損なわれる行為・事柄。」とある。

 冒頭の文脈は御子について語っているので、自分の欠点・失敗などを恥じることではなく(御子が十字架の磔刑に定められたのは、彼の罪のためではなかった)、名誉や面目が損なわれる行為・事柄としての十字架を語っている。

 興味深い点は、「厭わないで」「ものともせず」と和訳されている原語【καταφρονέω / kataphroneō】は、「軽蔑する・見下す」という非常に強いニュアンスを持つことである。つまり「自分の名誉が損なわれる状況に押しつぶされ、不承不承耐え忍んでいる」というのではなく、「自分を貶める状況の本質を理解し、その上を歩いている」と言い換えることはできるだろうか。

 さらに興味深い詳細は、「十字架を忍び」の「忍ぶ」と和訳されている動詞【ὑπομένω / hupomenō】で、この動詞は「下に ὑπο」+「留まる μένω」で構成されている。

 霊的に適用するならば、御子は神の永遠の計画としての十字架には「自らを下に置き」、つまり逆らうことなく自ら遜って従順であられたが(ピリピ2:8参照)、「自分の名誉や面目が損なわれる」という心理的な圧力には決して屈せず、「その上をいた」のである。

 試練や困難の時、私たちはこの「上下関係」を見失いがちではないだろうか。神の恵みの翼で覆われていることを忘れ、状況が生み出す心理的・感情的要素に振り回されてしまう。また他人の意見・批判を恐れ、恥意識に囚われ、御心を喜んで行うこともままならぬ、信仰の硬直化に陥ってしまう。

 『へブル人への手紙』の筆者が、当時厳しい迫害によって意気消沈し、以前の宗教性へ戻ろうとしていたユダヤ人クリスチャンへ書いた励ましの手紙は、現代の私たちにも有効である。

(新改訳)

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

 私たちがバランスを失い、「上下関係」も、前も後ろもわからなくなり、一人呆然と座り込んでしまう時、全てを失ったかのように思える私たちの心のうちに、御子イエスは信仰を創造し、完成へと導いて下さる方である。

「わたしたちはどこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」

ヨハネ6:1-7

1 そののち、イエスはガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖の向こう岸へ渡られた。

2 すると、大ぜいの群衆がイエスについてきた。病人たちになさっていたしるしを見たからである。

3 イエスは山に登って、弟子たちと一緒にそこで座につかれた。

4 時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた。

5 イエスは目をあげ、大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て、ピリポに言われた、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」。

6 これはピリポをためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。

7 すると、ピリポはイエスに答えた、「二百デナリのパンがあっても、めいめいが少しずついただくにも足りますまい」。 

 御子イエスが12弟子のひとりであるピリポを試すために投げかけた問い「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」は、日本語では文法上明確でないニュアンスが含まれている(このようなことを書くと、和訳聖書を卑下・否定する「教師」が大喜びするかもしれないが、当然私はそのような見解には全く同意していない)。

 主イエスは「(わたしたちは)どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」と、一人称複数形を使うことでご自分を弟子たちのグループ、つまり群衆のために何とか問題を解決しなければいけない立場」の中に含めたのである。

 この詳細はとても意味深いのではないだろうか。御子は「あなたがたはどこからパンを買ってきて、この人々に食べさせるつもりだ」と、弟子たちを不可能と無力のどん底に突き放すような問いかけはしなかった。

 また物理的に不可能であることを承知して、「私がパンを奇跡的に備え、この人々に食べさせよう」と宣言することもできたはずである。彼にはその力も、動機もあった。しかし主イエスは、「わたしたちはどこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」とピリポに問いかけたのである。

 単純計算によるアンデレの判断は、ピリポのそれと同様に現実的で、全く解決案になっていなかった。しかしアンデレの取った行動は、御子が「私たち」と言ったその意図に応えるものだったのである。アンデレは自分たちの手元にあるもの全てを、そのまま御子のところに持って行ったのである。そして御子はそれを用いて、彼だけができることを成し遂げた。

ヨハネ6:8ー11

8 弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、

9 「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。

10 イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。

11 そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。 

 「神が本当に全知全能ならば、私たちの問題を完全に知っているはずであり、私たちが解決できないで苦しんでいることも知っているはずだ。それならなぜその神に私たちは祈らなければならないのか。私たちはが祈らずとも一瞬で解決できるのに、なぜ私たちが祈るのを待っているのか。」と疑問を持つ人は少なくない。

 冒頭のエピソードに啓示されているように、その全知全能の神が人となり、イエス・キリストとして地上に遣わされ、人々の必要の真っただ中にいて、「私たちはどうすればいいか」と問いかけていること自体に、生ける神が如何に人間と人格的な交わりを持ちたいと思っておられるかを明確に示しているのではないだろうか。

ピリピ4:6-7

6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。

7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

豊かな実を結ぶ種

ルカ8:4-15

4 さて、大ぜいの群衆が集まり、その上、町々からの人たちがイエスのところに、ぞくぞくと押し寄せてきたので、一つの譬で話をされた、

5 「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。

6 ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。

7 ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。

8 ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」。こう語られたのち、声をあげて「聞く耳のある者は聞くがよい」と言われた。

9 弟子たちは、この譬はどういう意味でしょうか、とイエスに質問した。

10 そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。

11 この譬はこういう意味である。種は神の言である。

12 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。

13 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。

14 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。

15 良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。 

 よく考えてみると、自然界における増殖の法則は驚くべきものがないだろうか。たった一つの小さな種が成長して、十倍、百倍の同じ種を実らせる。人間はその種を撒くが、人間がその増殖の規則を生み出したわけではなく、また人間は水を撒くがその水を創ったわけでもない。あの小さな種のうちに、百倍の実を結ぶいのちがあり、力があるのである。

 御子は御言葉を種に譬えている。私たちは日々御言葉をどのように受け入れているだろうか。そのもののうちに命を秘める「種」として受け入れているだろうか。そして成長し、百倍の実を結ぶことができるものとして、期待し、大切に「育てている」だろうか。

 それとも無機質な小石のように、ただ集めて、あちらこちらに積み上げて、それなりの高さまで到達したことに悦に浸っているだけだろうか。

 種のうちにいのちがあるのだ。私たちはそれを信じて、想像するよりもはるかに豊かに実を結ぶことを期待し、もっとケアすべきなのかもしれない。

Ⅰペテロ1:23-25

23 あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。

24 「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。

25 しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。

ヤコブ1:21

だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。 

 御子自身、ご自分の命を一粒の種に譬え、十字架の死を通して「豊かに実を結ぶ」命を啓示していた。信仰者は、聖霊を通してこの御子の命の賜物を受けている。

ヨハネ12:23-24

23 すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。

24 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

 

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