an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

恥をもいとわないで十字架を忍び

へブル12:2

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。  

 「恥をも厭わないで」(新改訳:はずかしめをものともせずに)

 「恥 【αἰσχύνη / aischunē】」の日本語の意味は、「1.恥じること。自分の欠点・失敗などを恥ずかしく思うこと。」または「2.それによって名誉や面目が損なわれる行為・事柄。」とある。

 冒頭の文脈は御子について語っているので、自分の欠点・失敗などを恥じることではなく(御子が十字架の磔刑に定められたのは、彼の罪のためではなかった)、名誉や面目が損なわれる行為・事柄としての十字架を語っている。

 興味深い点は、「厭わないで」「ものともせず」と和訳されている原語【καταφρονέω / kataphroneō】は、「軽蔑する・見下す」という非常に強いニュアンスを持つことである。つまり「自分の名誉が損なわれる状況に押しつぶされ、不承不承耐え忍んでいる」というのではなく、「自分を貶める状況の本質を理解し、その上を歩いている」と言い換えることはできるだろうか。

 さらに興味深い詳細は、「十字架を忍び」の「忍ぶ」と和訳されている動詞【ὑπομένω / hupomenō】で、この動詞は「下に ὑπο」+「留まる μένω」で構成されている。

 霊的に適用するならば、御子は神の永遠の計画としての十字架には「自らを下に置き」、つまり逆らうことなく自ら遜って従順であられたが(ピリピ2:8参照)、「自分の名誉や面目が損なわれる」という心理的な圧力には決して屈せず、「その上をいた」のである。

 試練や困難の時、私たちはこの「上下関係」を見失いがちではないだろうか。神の恵みの翼で覆われていることを忘れ、状況が生み出す心理的・感情的要素に振り回されてしまう。また他人の意見・批判を恐れ、恥意識に囚われ、御心を喜んで行うこともままならぬ、信仰の硬直化に陥ってしまう。

 『へブル人への手紙』の筆者が、当時厳しい迫害によって意気消沈し、以前の宗教性へ戻ろうとしていたユダヤ人クリスチャンへ書いた励ましの手紙は、現代の私たちにも有効である。

(新改訳)

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

 私たちがバランスを失い、「上下関係」も、前も後ろもわからなくなり、一人呆然と座り込んでしまう時、全てを失ったかのように思える私たちの心のうちに、御子イエスは信仰を創造し、完成へと導いて下さる方である。