an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

元フリーメーソン第33位階ヨハネ・ユリン氏の証言

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 元フリーメーソン第33位階(最高位)で、主イエス・キリストを信じて救われたフィンランド人ヨハネ・ユリン(Juhani Julin)氏が、福音宣教のためのプログラムの中で語っている証言。

 このインタビューを放映したフィンランドのTV7チャンネルのサイトによると、インタビューが録画された2011年6月6日の17日後、6月23日に事故で死亡した、とある。

 以下、個人的に意味深いと思った要点を意訳・抜粋してみた。

  • 1991年にフィンランドのフリーメーソンに入会し、16年間所属していた。
  • 位階が上がっていく毎にフリーメーソンの秘密が明かされるので、自分の位階とその下の位階の事しか知ることができず、上の位階については知ることができなかった。
  • 位階が上がる度に誓いをするが、何に誓っているかわからず誓っていた。
  • その誓いに関しては、Geber Weldon著の「Secret Teachings of Freemasons」に書かれている。
  • 儀式の中で「神」という言葉や「聖書」が引用されていることで、慣習的なクリスチャン、つまり自分の生まれ育ったキリスト教文化や宗教的伝統に従って自分がクリスチャンであると考えている人は、フリーメーソンの儀式が聖書に基づいたものだと容易に勘違いしてしまう。
  • フリーメーソンは、位階が下のメンバーや組織部外者を意図的に騙す。
  • 第33位階においてフリーメーソンの真の「神」は、ルシファー、つまりサタンであることが啓示される。
  • 息子夫婦が主イエスに回心したことがきっかけで、Alpha Courseに参加した。
  • またある聖書研究会に参加し、そこでヨハネの福音書に3年、使徒行伝に1年の時間をかけ学んだ。
  • 救いを受けてから、フリーメーソンに属する8000人のフィンランド人の中から少しでも多くの魂を救うために働いている。
  • フリーメーソンの組織の中にいる多くの「キリスト教聖職者」が、フリーメーソンの正統性を主張する根拠として利用されている。
  • スウェーデン国教会において、半数の監督がフリーメーソンである。


Interview With a Former Finnish 33rd Degree Freemason part 1


Interview With a Former Finnish 33rd Degree Freemason part 2

 

 90%の真理に10%の「毒」が混ぜ合わされた教えに惑わされないためにも、聖書の真理の学び、特に主イエス・キリストを知ることの重要性が強調されている。

エペソ4:13-15

13 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。

14 こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、

15 愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。 

Ⅱペテロ3:15-18

15 また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。

16 彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。

17 愛する者たちよ。それだから、あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい。

18 そして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい。栄光が、今も、また永遠の日に至るまでも、主にあるように、アァメン。 

 確かに、主なる神の寛容は御子イエスの尊き犠牲による魂の救いが目的であり、フリーメーソンがモットーとして掲げる「寛容」とは本質的に異なるのである。

「隠された手」

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 先日、ヴェネツィアを歩いていてCampo Manin(マニン広場)を通った時、広場の中央にある像を見て思わず写真を撮らずにはいられなかった。1848年革命により独立を宣言したヴェネツィア臨時政府の大統領、ダニエーレ・マニン(1804-1857)の像であり、台の足元にはヴェネツィアの守護聖人である聖マルコを表す翼を持ったライオンが表現されている。一般的にはこの翼をもつライオンは、マルコが福音書記者であることから、開いた本に足を置いた姿で表現されているが、この像ではその本がないことから、「ヴェネツィアのシンボル」として使われていると思われる。

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 しかし私が急いでいたにもかかわらず立ち止まって写真を撮った動機は、その銅像がヴェネツィアの一人の英雄を表現していたからではなく、表現されているシンボル、具体的に言えば、「隠された右手」を見つけたからである。

 すでに知られていることであるが、「隠された手」はフリーメーソンに属していた人物を表現している肖像に頻繁に使われているシンボルである。以下は、著名な人物におけるいくつかの例である。

  • ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)

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  • ソロモン・ロスチャイルド(1774-1855)

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  • ジュセッペ・ガリバルディ( 1807-1882)

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  • カミッロ・ベンソ(カヴール伯爵 1810-1861)

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  • François Guizot (1787-1874)

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  • ジョージ・ワシントン(1732-1799 初代アメリカ合衆国大統領)

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  • ジョン・アダムス(1735-1826 第2代アメリカ合衆国大統領)

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  • マーティン・ヴァン・ビューレン(1782-1862 第8代アメリカ合衆国大統領)

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  • フランクリン・ピアース(1804-1869 第14代アメリカ合衆国大統領)

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  • アンドリュー・ジョンソン(1808-1875 第17代アメリカ合衆国大統領)

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  • ラザフォード・バーチャード・ヘイズ(1822-1893 第19代アメリカ合衆国大統領)

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  • ジェームス・A・ガーフィールド(1831-1881、第20代アメリカ合衆国大統領)

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  • カール・マルクス(1818ー1883)

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  • ヨシフ・スターリン(1878-1953)

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  • 坂本龍馬(1836-1867)

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  • ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)

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(この肖像画のオリジナルは、ボローニャのマルティーニ音楽院に所蔵されている)

 

  • ジョアキーノ・ロッシーニ(1792-1868)

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  • ジャコモ・プッチーニ(1858-1924)

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  • ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832)

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  • フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(1844-1900)

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  • エドガー・アラン・ポー(1809-1849)

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  • ジョン・ラスキン(1819-1900)

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  • ポール・マッカトニーとジョン・レノン

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 このようにWEB上の検索でも、多くの例が見つけられる。現代の報道写真のように被写体自身の意思とは無関係に一瞬の動作を撮影したものではなく、1枚の肖像画として画家や彫刻家、写真家などが構図やポーズを予め決めて表現しているものなので、そこには明らかな意図が存在するわけである。

 しかし今回検索している中で最も驚いた「発見」は、救世軍を創立したウィリアム・ブース(1829-1912)が「隠された手」のポーズを取った画像が何枚もあったことである。

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 比較的若い時代から晩年の写真に至るまで、また個人の写真から集合写真まで同じポーズをしているのを「偶然の一致」として捉えることは無理があるだろう。

 勿論、これらの写真のみをもって「ウィリアム・ブースはフリーメーソンであった」ことの確証とはならないかもしれない。ただアメリカのニュージャージー州のエゼキエル・グラン・ロッジのサイト(Famous Freemasons)には、「Famous Freemasons」の一人として、ウィリアム・ブースの名前が記されている。

 今は人の目には隠されている「わざ」や「思い」でも、やがて全てを知る神の光によって明らかにされるであろう。

伝道12:13-14

13 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。

14 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

へブル4:13

そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。

 

追記:

 List of Freemasons(A-D)によれば、ウィリアム・ブース自身の名前はなく、その代わり彼の次男で救世軍将校(?「Officer」とあるが、救世軍においてそれがどのような肩書に値するかはわからない。)であったバリントン・ブース(1857-1940)の名前がある。

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関連記事:

ネットゥーノ広場での伝道イベント

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 夕方、ボローニャ市の中心にあるネットゥーノ広場(ジャンボローニャ作の噴水があり、そのネプチューンの像がもつ銛の先は、1914年の創立された自動車会社マセラーティ社のロゴに使われている)に、カトリック教会がオーガナイズした伝道のためのテントが設置され、中で賛美が歌われ、ミサが行われていた。テントの前では、司祭と思われる人が告解を聴いているところであった。

 今までカトリック教会がこのようなテントを公共の広場に設置したのを見たことがなかったので、とても驚いてしまった。カトリック教会は少なくともイタリアの都市部では、100メートルごとに教会があると言っても大袈裟ではないほど多くの教会を持ち、それぞれの場所で一日に何度もミサを行っている。そのようなカトリック教会の人々が、町の広場に出て行って、「Gesù è qui / イエスはここにおられる」と手書きで書いたプラカードを掲げる必要を感じたということは、私にとって大きな教訓に思えた。

 というのも、イタリアでは今までこのような積極的な伝道活動は、どちらかというと福音派、特にペンテコステ派の教会のみによって行われてきたからである。しかしここ数年で状況が変わってきており、少なくともボローニャでは、ペンテコステ派が年々、自閉的・自己満足的になり、路傍伝道や広場における伝道集会を行う教会はほとんどなくなってきている。その代わりかどうかはわからないが、今まで福音派の信徒たちが路傍伝道していたところに、エホバの証人が移動式のトラクトケースのようなものを使って「宣教」するようになり、最近では多くの街角で下のような証人を見かけるようになった。

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 残念なことに以前は伝道に熱心だった信徒たちが、エホバの証人と間違えられるのを嫌がり、外へ出て行くことを渋ったり、恥ずかしがるようになってしまった。そして自分たちの教会の建物の中で、自分たちの伝統の礼拝で満足し、自らに課された為すべきことをしていない良心の呵責を、様々なイベントを企画することや、さらにひどい場合はエホバの証人などを批判することで誤魔化す誘惑に晒されているのである。

 このような現状は、『黙示録』の中にラオデキヤの教会の霊的状態に共通するものがあると言えるかもしれない。生ぬるい自己満足の中でくつろぎ、いつの間にか主イエスが教会の外にいて語りかけているのに気づいていない。

黙示録3:14-22

14 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。

15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。

16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。

17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。

18 そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。

19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。

20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。

22 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。

 教義的に聖書が啓示する真理とは異なる教えを信奉していると私たちが判断する宗派が、どのような動機で何を目的に宣教活動しているかを批判したところで、自分たちの状況が変わることはない。自ら為すべきことと信じていながらもそれを為していないのは自分たちであり、問題はそこにあるのだから。

 勿論、宣教活動やそれに付随するイベント自体はオーガナイズさえすれば誰でもできることである。しかしその活動の源泉が主の御前で問われることを知っているがゆえに、ただ単に状況に差し迫られ動き出すのではなく、祈りのうちに宣教を命令した方、御子イエスとの交わりによって、聖霊の力と導きを受けて一人一人の魂に対して救いの福音を伝えていこう。それは私たち自身が救われた日からよく知っていることで、大がかりな企画や面倒な手続きなど必要としない、まさしくキリストの香りと呼べるものなのだから。

Ⅱコリント2:14-17

14 しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。

15 わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。

16 後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。

17 しかし、わたしたちは、多くの人のように神の言を売物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである。

王の家の窓から見下ろすミカル

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サムエル下6

1 ダビデは再びイスラエルのえり抜きの者三万人をことごとく集めた。

2 そしてダビデは立って、自分と共にいるすべての民と共にバアレ・ユダへ行って、神の箱をそこからかき上ろうとした。この箱はケルビムの上に座しておられる万軍の主の名をもって呼ばれている。

3 彼らは神の箱を新しい車に載せて、山の上にあるアビナダブの家から運び出した。

4 アビナダブの子たち、ウザとアヒオとが神の箱を載せた新しい車を指揮し、ウザは神の箱のかたわらに沿い、アヒオは箱の前に進んだ。

5 ダビデとイスラエルの全家は琴と立琴と手鼓と鈴とシンバルとをもって歌をうたい、力をきわめて、主の前に踊った。

6 彼らがナコンの打ち場にきた時、ウザは神の箱に手を伸べて、それを押えた。牛がつまずいたからである。

7 すると主はウザに向かって怒りを発し、彼が手を箱に伸べたので、彼をその場で撃たれた。彼は神の箱のかたわらで死んだ。

8 主がウザを撃たれたので、ダビデは怒った。その所は今日までペレヅ・ウザと呼ばれている。

9 その日ダビデは主を恐れて言った、「どうして主の箱がわたしの所に来ることができようか」。

10 ダビデは主の箱をダビデの町に入れることを好まず、これを移してガテびとオベデエドムの家に運ばせた。

11 神の箱はガテびとオベデエドムの家に三か月とどまった。主はオベデエドムとその全家を祝福された。

12 しかしダビデ王は、「主が神の箱のゆえに、オベデエドムの家とそのすべての所有を祝福されている」と聞き、ダビデは行って、喜びをもって、神の箱をオベデエドムの家からダビデの町にかき上った。

13 主の箱をかく者が六歩進んだ時、ダビデは牛と肥えた物を犠牲としてささげた。

14 そしてダビデは力をきわめて、主の箱の前で踊った。その時ダビデは亜麻布のエポデをつけていた。

15 こうしてダビデとイスラエルの全家とは、喜びの叫びと角笛の音をもって、神の箱をかき上った。

16 主の箱がダビデの町にはいった時、サウルの娘ミカルは窓からながめ、ダビデ王が主の前に舞い踊るのを見て、心のうちにダビデをさげすんだ。

17 人々は主の箱をかき入れて、ダビデがそのために張った天幕の中のその場所に置いた。そしてダビデは燔祭と酬恩祭を主の前にささげた。

18 ダビデは燔祭と酬恩祭をささげ終った時、万軍の主の名によって民を祝福した。

19 そしてすべての民、イスラエルの全民衆に、男にも女にも、おのおのパンの菓子一個、肉一きれ、ほしぶどう一かたまりを分け与えた。こうして民はみなおのおのその家に帰った。

20 ダビデが家族を祝福しようとして帰ってきた時、サウルの娘ミカルはダビデを出迎えて言った、「きょうイスラエルの王はなんと威厳のあったことでしょう。いたずら者が、恥も知らず、その身を現すように、きょう家来たちのはしためらの前に自分の身を現されました」。

21 ダビデはミカルに言った、「あなたの父よりも、またその全家よりも、むしろわたしを選んで、主の民イスラエルの君とせられた主の前に踊ったのだ。わたしはまた主の前に踊るであろう。

22 わたしはこれよりももっと軽んじられるようにしよう。そしてあなたの目には卑しめられるであろう。しかしわたしは、あなたがさきに言った、はしためたちに誉を得るであろう」。

23 こうしてサウルの娘ミカルは死ぬ日まで子供がなかった。

  契約の箱の前で踊る夫ダビデを窓から見て侮蔑したミカルは、おそらく一つの重要な点を忘れていたのではないだろうか。それは自分の父でイスラエルの初代の王であったサウルは、もともと王族でも何でもなく、彼自身が神に選ばれた時に戸惑いながら告白した通り、イスラエルの十二部族の中でも最も小さなベンヤミン部族に属し、その最小の部族の中でも取るに足らない家系だったのである。

Ⅰサムエル9:21

サウルは答えた、「わたしはイスラエルのうちの最も小さい部族のベニヤミンびとであって、わたしの一族はまたベニヤミンのどの一族よりも卑しいものではありませんか。どうしてあなたは、そのようなことをわたしに言われるのですか」。

 ミカルは自分が「王の娘」であり、また王ダビデの「王妃」であることも、全て神の一方的な憐みのゆえだったことを忘れていたのである。実際、夫ダビデも元々は羊飼いであり、兄弟の中でも卑しめられていたところから、神の計画によりイスラエルの王として召命を受けたのであり、ミカルがそのダビデの妻となったのも、同じ神の憐み深い計画によるものだったのである。

 ダビデはその神の恵みを忘れなかった。だからこそ、ウザの恐ろしい出来事にもかかわらず、自分の住んでいる町に契約の箱を運び入れることを再度試み、畏れつつも主の御前でその喜びを全身で表したのであった。

 私たちキリスト者が王なる神によって贖われ「神の子」となったのも、御子イエスの花嫁である教会に属するようになったのも、ただ神の一方的な恵みによる。その恵みを忘れ、「正統性」や「伝統」「宗教性」によって築き上げた砂の宮殿の高みの窓から、この世の「はしためたち」を見下すようなことがないよう注意しよう。自ら「わたしは柔和で心のへりくだった者である」と言われた御子イエスは、その見下された「はしためたち」と共にいて、父なる神との交わりの喜びを分け与えてくださっているのだから。

Ⅰコリント1:26-31

26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。

27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、

28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。

29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。

30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。

31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。 

『Breaking the Silence 沈黙を破って:イスラエル元兵士たちの証言』

 イスラエル人とかパレスチナ人とかの立場の違いを超えて、一人の生身の人間の良心の在り方に深く考えさせられるビデオである。

 兵士としての立場や任務が与える「正当化」でもなだめることのできない良心の呵責。それに対して自分の異常さを正直に認め、正しいことをしようとする衝動、そしてそれを実際に行う勇気。

 特にCombatant for Peaceというグループが月に一回行っているという、パレスチナ人とのグループの話し合いには、強く心を打つものがある。実際に何かを変えることができるかどうかわからないが、とにかく償いや和解のために何かをしたい、何かをしなければならない、と行動できるのは、自分の過ちの重大さを自覚しているからだ。

 聖書が啓示する「悔い改め」を実質的に形骸化してしまう現代の「ハイパーグレイス」の教え、つまり「過去、現在、未来のすべての罪は主イエスの十字架によってすでに赦されたので、信者は決して罪を告白する必要はないし、自分の罪の責任を一切負う必要はない」と傲慢で軽薄な「開き直り」を正当化する教えには、とても大切な教訓ではないだろうか。

喜びと愛を失ってしまった魂に対する主の憐み

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マラキ3:13-18

13 主は言われる、あなたがたは言葉を激しくして、わたしに逆らった。しかもあなたがたは『われわれはあなたに逆らって、どんな事を言ったか』と言う。

14 あなたがたは言った、『神に仕える事はつまらない。われわれがその命令を守り、かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか。

15 今われわれは高ぶる者を、祝福された者と思う。悪を行う者は栄えるばかりでなく、神を試みても罰せられない』」。

16 そのとき、主を恐れる者は互に語った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。そして主を恐れる者、およびその名を心に留めている者のために、主の前に一つの覚え書がしるされた。

17 「万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

18 その時あなたがたは、再び義人と悪人、神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる。 

 13節は、主なる神に対する信仰と奉仕を自覚している人間でも、心がある種の鈍感さで覆い縛られる可能性を暗示している。バビロニア捕囚から神の憐みによって約束の地へ帰還することができたにもかかわらず、イスラエルの民は『神に仕える事はつまらない。われわれがその命令を守り、かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか。今われわれは高ぶる者を、祝福された者と思う。悪を行う者は栄えるばかりでなく、神を試みても罰せられない』という近視眼的・短絡的思考に囚われてしまい、それが神の主権に対する反逆を意味していることも気付いていなかったのである。

 また自分たちが主なる神に特別に愛されていることさえも実感できなくなっていた。

マラキ1:2a

主は言われる、「わたしはあなたがたを愛した」と。ところがあなたがたは言う、「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか」。

 しかし誰がこのイスラエルの民を軽々しく非難することができようか。しばし信仰者は生ける神に仕えているという自覚からくる尊厳と喜びと責任感を失い、惰性と習慣で日々の命を浪費し、それと同時に、神を畏れぬ人々の成功や繁栄を思い、詩篇73篇のアサフの様に心の底に苦い思いをため込んでいたりしていないだろうか。主の御前に立ち、清めを求める祈りが足りないために、このような状態に慢性的に閉じこもり、自分たちの霊がどのような状態にいるのか、気付かないことさえ「普通」になってしまうのである。

 しかし信仰者のうちに与えられた聖霊は、そのような状態の心にも語りかけてくださるのだ。「主を畏れる者、つまり信仰の兄弟姉妹の交わり」さえままならない状況でさえも、神の霊はその魂を決して見捨てない。一人失望し、シナイ山の洞穴に逃げ隠れていた預言者エリヤに静かに語りかけた主なる神は、その魂に語りかけ、御子イエスの十字架の恵みによって、私たちがすでに「主なる神に贖われた者」であり、「主の特別な宝」であり、「無限の憐みを受けた者」であり、「御子の死と復活によって義とされ」、「生ける神に仕えるしもべ」として召命を受けたことを、何度も何度も繰り返し、祈りの中や聖書の御言葉を通して、また特殊な状況によって、思い出させてくださるのである。

オハイオ州のグランドロッジに属するバプティスト教会の牧師

 アメリカ合衆国オハイオ州のフリーメーソンのグランドロッジ発行の季刊誌(

http://www.phaohio.org/mwphgloh/lamp4thQtr08.pdf, 2008年)によると、21名の新規会員のうち、5名の牧師の名が記され、そのうち4名はバプティスト教会の牧師である。

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 記事に添付された写真の一列目、左から

①Reverend Dr.John Freeman, Pastor of United AME Church, Xenia;

②Reverend Bruce Jones, Pastor of Mt. Carmel Missionary Baptist Church, Springfield;

⑤Reverend K. Edwin Bryant, Pastor of Mt. Pisgah Baptist Church, Dayton;

⑥Reverend Dr. P. E. Henderson, Jr., Pastor of Corinthian Baptist Church, Dayton;

⑦Reverend Chad A. White, Sr., Pastor of Mt. Carmel Missionary Baptist Church, Dayton.

 

 この記事や、「二十世紀で最も偉大な黒人説教者の一人」と評価を受けていたクラーク牧師の例が示しているように、アメリカのメインライン・プロテスタントのバプティスト教会とフリーメーソンは深い関係があるようである。

 このブログには世界各地からアクセスがあるが、読者の方々の中には「自分の教会は主流派だから安心」という意識をもっている方がいるかもしれない。しかし陰謀論的・噂話的要素を脇に置き、一度、身近な宣教師や教会指導者にフリーメーソンに対する意見・立場を確認することも必要ではないかと思う。

 また季刊誌を読んで、ヨーロッパ、特にイタリアにおけるフリーメーソンの在り方と、アメリカにおけるそれとは、多少異なるような印象を受けた。そのあたりの情報を提供できる方がいたら、是非共有していただければ、と思う。

 

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