an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

王の家の窓から見下ろすミカル

f:id:eastwindow18:20160926210213j:plain

サムエル下6

1 ダビデは再びイスラエルのえり抜きの者三万人をことごとく集めた。

2 そしてダビデは立って、自分と共にいるすべての民と共にバアレ・ユダへ行って、神の箱をそこからかき上ろうとした。この箱はケルビムの上に座しておられる万軍の主の名をもって呼ばれている。

3 彼らは神の箱を新しい車に載せて、山の上にあるアビナダブの家から運び出した。

4 アビナダブの子たち、ウザとアヒオとが神の箱を載せた新しい車を指揮し、ウザは神の箱のかたわらに沿い、アヒオは箱の前に進んだ。

5 ダビデとイスラエルの全家は琴と立琴と手鼓と鈴とシンバルとをもって歌をうたい、力をきわめて、主の前に踊った。

6 彼らがナコンの打ち場にきた時、ウザは神の箱に手を伸べて、それを押えた。牛がつまずいたからである。

7 すると主はウザに向かって怒りを発し、彼が手を箱に伸べたので、彼をその場で撃たれた。彼は神の箱のかたわらで死んだ。

8 主がウザを撃たれたので、ダビデは怒った。その所は今日までペレヅ・ウザと呼ばれている。

9 その日ダビデは主を恐れて言った、「どうして主の箱がわたしの所に来ることができようか」。

10 ダビデは主の箱をダビデの町に入れることを好まず、これを移してガテびとオベデエドムの家に運ばせた。

11 神の箱はガテびとオベデエドムの家に三か月とどまった。主はオベデエドムとその全家を祝福された。

12 しかしダビデ王は、「主が神の箱のゆえに、オベデエドムの家とそのすべての所有を祝福されている」と聞き、ダビデは行って、喜びをもって、神の箱をオベデエドムの家からダビデの町にかき上った。

13 主の箱をかく者が六歩進んだ時、ダビデは牛と肥えた物を犠牲としてささげた。

14 そしてダビデは力をきわめて、主の箱の前で踊った。その時ダビデは亜麻布のエポデをつけていた。

15 こうしてダビデとイスラエルの全家とは、喜びの叫びと角笛の音をもって、神の箱をかき上った。

16 主の箱がダビデの町にはいった時、サウルの娘ミカルは窓からながめ、ダビデ王が主の前に舞い踊るのを見て、心のうちにダビデをさげすんだ。

17 人々は主の箱をかき入れて、ダビデがそのために張った天幕の中のその場所に置いた。そしてダビデは燔祭と酬恩祭を主の前にささげた。

18 ダビデは燔祭と酬恩祭をささげ終った時、万軍の主の名によって民を祝福した。

19 そしてすべての民、イスラエルの全民衆に、男にも女にも、おのおのパンの菓子一個、肉一きれ、ほしぶどう一かたまりを分け与えた。こうして民はみなおのおのその家に帰った。

20 ダビデが家族を祝福しようとして帰ってきた時、サウルの娘ミカルはダビデを出迎えて言った、「きょうイスラエルの王はなんと威厳のあったことでしょう。いたずら者が、恥も知らず、その身を現すように、きょう家来たちのはしためらの前に自分の身を現されました」。

21 ダビデはミカルに言った、「あなたの父よりも、またその全家よりも、むしろわたしを選んで、主の民イスラエルの君とせられた主の前に踊ったのだ。わたしはまた主の前に踊るであろう。

22 わたしはこれよりももっと軽んじられるようにしよう。そしてあなたの目には卑しめられるであろう。しかしわたしは、あなたがさきに言った、はしためたちに誉を得るであろう」。

23 こうしてサウルの娘ミカルは死ぬ日まで子供がなかった。

  契約の箱の前で踊る夫ダビデを窓から見て侮蔑したミカルは、おそらく一つの重要な点を忘れていたのではないだろうか。それは自分の父でイスラエルの初代の王であったサウルは、もともと王族でも何でもなく、彼自身が神に選ばれた時に戸惑いながら告白した通り、イスラエルの十二部族の中でも最も小さなベンヤミン部族に属し、その最小の部族の中でも取るに足らない家系だったのである。

Ⅰサムエル9:21

サウルは答えた、「わたしはイスラエルのうちの最も小さい部族のベニヤミンびとであって、わたしの一族はまたベニヤミンのどの一族よりも卑しいものではありませんか。どうしてあなたは、そのようなことをわたしに言われるのですか」。

 ミカルは自分が「王の娘」であり、また王ダビデの「王妃」であることも、全て神の一方的な憐みのゆえだったことを忘れていたのである。実際、夫ダビデも元々は羊飼いであり、兄弟の中でも卑しめられていたところから、神の計画によりイスラエルの王として召命を受けたのであり、ミカルがそのダビデの妻となったのも、同じ神の憐み深い計画によるものだったのである。

 ダビデはその神の恵みを忘れなかった。だからこそ、ウザの恐ろしい出来事にもかかわらず、自分の住んでいる町に契約の箱を運び入れることを再度試み、畏れつつも主の御前でその喜びを全身で表したのであった。

 私たちキリスト者が王なる神によって贖われ「神の子」となったのも、御子イエスの花嫁である教会に属するようになったのも、ただ神の一方的な恵みによる。その恵みを忘れ、「正統性」や「伝統」「宗教性」によって築き上げた砂の宮殿の高みの窓から、この世の「はしためたち」を見下すようなことがないよう注意しよう。自ら「わたしは柔和で心のへりくだった者である」と言われた御子イエスは、その見下された「はしためたち」と共にいて、父なる神との交わりの喜びを分け与えてくださっているのだから。

Ⅰコリント1:26-31

26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。

27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、

28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。

29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。

30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。

31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。