an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生けるキリストを求めて(41)モリヤの祭壇における御子の顕現

創世記22:7-14

7 やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。

8 アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。

9 彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。

10 そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、

11 主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。

12 み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。

13 この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。

14 それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。 

 モリヤの山の神が指定された場所に着いたアブラハムは、そこに祭壇を築き、イサクに背負わせていた薪を祭壇の所に並べ、イサクを縛ってその上に載せた。これは実に驚くべきことである。いくらまだ幼いとはいえ、イサクも一人の人格をもった人間である。彼の「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」という冷静な質問に、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」と答えた父親に、「お父さん、一体何しているの。神様が子羊を備えてくれるって、さっき言ったよね。なぜ僕を縛っているの。」と聞くこともできただろう。力で反抗することもできたかもしれない。しかし、イサクは無言で父親のするままに任せた。

 これは御子イエス・キリストが、十字架の死という神の御旨に従順に従ったことの予型である。

ピリピ2:6-8

6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、

7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、

8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。  

Ⅰペテロ2:22-24

22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。

23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。

24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。 

 そしてアブラハムが刃物を振りかざし、まさにイサクを屠ろうとした瞬間、主の使いが天からアブラハムに呼びかけた。二度アブラハムの名を繰り返し呼んでいるのは、御使いが急いでアブラハムを止めようとしていることを示している。(22:1では一回だけ「アブラハムよ」と呼びかけているのと比較すると理解しやすい。)

 この御使いの呼びかけにアブラハムは直ぐ応答している。その声が、神からのものだと明確に知っていたからである。もしそれが「聞き慣れていない声」であったら、「父の御心を行うことを邪魔するサタンよ、退け。」と答えたであろう。しかしその声は確かに神から来るものであった。

 実際、この御使いは普通の天使ではなく、御子キリストの受肉前の顕現である。それは「あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」という彼の言葉からの理解できる。アブラハムは神の命令に従って、神のためにイサクを捧げようとしたが、御使いはその行為を「わたしのため」と言っているのである。この御使いが、神の御子だったからである。

 「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない」と言ってアブラハムの手を止め、イサクの代わりに一頭の雄羊を備えた御子キリストが、何世紀も後になって人となり、ゴルゴタの丘で十字架に架けられた時、天から如何なる声もなく、誰もそれを止める者はいなかった。彼自身が「身代わりの子羊」となって屠られたからである。

 「あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。全知全能の神の御子は、この時までアブラハムの心を知らず、理解できなかったのだろうか。否、むしろ「自分の最も愛する子の命を神の命令に従って捧げる」行為に至ったアブラハムの心と、十字架の贖罪の死を計画していた神の心が、御子キリストのうちに一つになったことを示しているのである。

 実際、新約聖書においてヤコブは、アブラハムのこの信仰による行為を、彼が『神の友』と呼ばれるに至った一つの理由として記述している。

ヤコブ2:21-23

21 わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。

22 あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、

23 こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。

 これはまた、全ての信仰者の人生の究極の目的でもある。

ピリピ3:8-12

8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、

9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、

11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。

12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。

 このアブラハムのエピソードについて考えると、心にある種の緊張感みたいなものが生まれる。とてつもなく深遠で神聖な領域に、思わず入り込んでしまったような、そんな感覚である。神の憐みに心から感謝したい。