an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『レギオン』から解放された男(3)

ルカ8:26-39

26 それから、彼らはガリラヤの対岸、ゲラサ人の地に渡った。

27 陸にあがられると、その町の人で、悪霊につかれて長いあいだ着物も着ず、家に居つかないで墓場にばかりいた人に、出会われた。

28 この人がイエスを見て叫び出し、みまえにひれ伏して大声で言った、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。お願いです、わたしを苦しめないでください」。

29 それは、イエスが汚れた霊に、その人から出て行け、とお命じになったからである。というのは、悪霊が何度も彼をひき捕えたので、彼は鎖と足かせとでつながれて看視されていたが、それを断ち切っては悪霊によって荒野へ追いやられていたのである。

30 イエスは彼に「なんという名前か」とお尋ねになると、「レギオンと言います」と答えた。彼の中にたくさんの悪霊がはいり込んでいたからである。

31 悪霊どもは、底知れぬ所に落ちて行くことを自分たちにお命じにならぬようにと、イエスに願いつづけた。

32 ところが、そこの山べにおびただしい豚の群れが飼ってあったので、その豚の中へはいることを許していただきたいと、悪霊どもが願い出た。イエスはそれをお許しになった。

33 そこで悪霊どもは、その人から出て豚の中へはいり込んだ。するとその群れは、がけから湖へなだれを打って駆け下り、おぼれ死んでしまった。

34 飼う者たちは、この出来事を見て逃げ出して、町や村里にふれまわった。

35 人々はこの出来事を見に出てきた。そして、イエスのところにきて、悪霊を追い出してもらった人が着物を着て、正気になってイエスの足もとにすわっているのを見て、恐れた。

36 それを見た人たちは、この悪霊につかれていた者が救われた次第を、彼らに語り聞かせた。

37 それから、ゲラサの地方の民衆はこぞって、自分たちの所から立ち去ってくださるようにとイエスに頼んだ。彼らが非常な恐怖に襲われていたからである。そこで、イエスは舟に乗って帰りかけられた。

38 悪霊を追い出してもらった人は、お供をしたいと、しきりに願ったが、イエスはこう言って彼をお帰しになった。

39 「家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」。そこで彼は立ち去って、自分にイエスがして下さったことを、ことごとく町中に言いひろめた。

 自分の命の恩人の近くにいたいというのは、ごく自然のものではないだろうか。しかしなぜイエス・キリストは、この長年悪霊に憑りつかれ、家族や友人からも見捨てられ、孤独のうちに墓場を徘徊していた男が、悪霊の支配から解放され正気に戻れたことの感謝と喜びを「お供したい」という切なる願いで表していたのに、それを断ったのだろうか。神を信じる他の弟子達と共に、イエス・キリストに従っていくことは、悪霊に奪われた正常な人間関係を取り戻すには、最適だったのではないだろうか。何よりも、イエス・キリストの御許にいる喜びは、レギオンの大所帯が追い出された「空の家」には必要だったのではないだろうか。

 彼がイスラエル人ではなかったから、という理由も十分に考えられるが、聖書は明らかにしていない。三十七節と三十九節で理解できることは、恐怖と不信感によってイエス・キリストがそこに留まることを忌み嫌ったゲラサの民衆に対して、この男はイエス・キリストの力と権威の生き証人として遣わされ、その任務を忠実に果たしたことである。

 「家に帰って」。あまりの凶暴さに手に負えないで自分のことを見捨てるしかなかった家族の所に帰り、イエス・キリストの証しをすることが、神が彼に備えた献身の計画だったのである。この男が大きな喜びでその神の御旨に従ったことが、彼が自分の家族だけでなく、町中に言い広め、さらに「ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出した」(マルコ5:20)という記述からもよくわかる。

 「救いの純粋な経験」と「イエス・キリストの御言葉に対する従順」そして「喜び」。これこそ、真の献身を支え、この世に証明する要素である。