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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

教会の本質―マタイ18章の考察(6)

マタイ18:21-25 

21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。 

22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。 

23 それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。 

24 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。 

25 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。 

26 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。 

27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。 

28 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。 

29 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。 

30 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。 

31 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。 

32 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。 

33 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。 

34 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。 

35 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。 

 新約聖書に記されている数々の喩え話は、天上の真理を地上における日常の事物で表したものだが、中には解りづらいものもある。しかし喩え話の解釈の方法には一定のルールがあり、それさえ押さえていれば解釈において大きくブレることはない。以下、そのルールを簡単にまとめてみた。

  • 喩え話の解釈だけに限らないが、文脈をよく把握することは基本である。イエスがそのたとえ話を話すきっかけは何だったか。誰に語ったか。もし前後に喩え話があるならどのような関係があるか、などである。冒頭の喩え話は、ペテロの具体的な質問に答えた後に、「七たびを七十倍するまで赦す」という人間的には不可能なその命令の動機を語っている。
  • 多くの場合、喩え話の最後に中心となる真理が啓示されているので、そのメッセージからブレないようにする。使われている細部の適用(例えば、『善きサマリヤ人』のブドウ酒とか油など)は、この中心的な教えから離れないようにしなければならない。冒頭の喩え話の場合は、最後の三十五節が核となるメッセージである。
  • 喩え話の中心テーマは、必ず聖書の他の箇所に、端的に啓示されている聖句がある。それらの聖句によって、コンセプトをより正確なものに絞ることができる。

 ペテロは、十五節の教え「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる」に対して、戸惑いを隠さなかった。「赦すこと」「相手が悪いと知っていても、自ら和解の手を先に差し伸べること」が如何に難しいことか実感していたからであろう。ペテロとしたら「7」という完全数を使うことで、十分に神の完全な要求を満たす条件だと考えた。しかし、主の教えはペテロの予想をはるかに超えていた。「七の七十倍」とは、四百九十回のという意味ではなく、「徹底的に」という意味である。三十五節の「心から」という表現につながっている。現実的にもし「心から」赦すことができなかったら、一度目は大丈夫でも、二度三度繰り返していくうちに、我慢できなくなり、赦すどころか憎悪の念を抱くようになるかもしれない。少なくともその兄弟とは係わりを持たないようにするだろう。そこでこの喩え話が出てき、心から兄弟を赦さないということはどういうことかを啓示したのである。

 当然「決算をする王であり主人」はイエス・キリストであり、一万タラントの負債のある僕は私達である。この僕は主人に迫られ、思わず「全部お返しいたしますから」と返事しているが、この「一万タラント」とは、当時の労働賃金換算で約六千万日分で、一生働いて稼いだ分どころの話ではなく、十六万三千四百八十年分の収入、つまりたとい何回生まれ変わって毎日働き続けても払いきれる額ではなかったのである。これは私達罪びとが、神の前で抱えていた負債の大きさ見事に表している。

詩編49:7

まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。そのいのちの価を神に払うことはできない。 

 そして、とてつもない負債額であったにもかかわらず、この王が憐れみによって全てを帳消しにしたように、主なる神の子イエスは自ら犠牲の死によって、私たちの罪の負債を帳消しにしてくださったのである。まさに神は主イエス・キリストによって、私達を「徹底的に」「心から」赦して下さった。その代価は私たちは一生かかっても理解できないものである。

 しかし、私達が人の罪を心から赦さないということは、私達の罪を赦してくださった神の目には、まるで百デナリを貸しているひとりの仲間の首をしめて『借金を返せ』と言った僕のようなものである。この仲間は彼が主人の前でしたように、ひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。しかし彼は承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。「たった」百日分の借金のために。「わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」という言葉は、教会の交わりにおいて赦しの心を失わない様、絶えず心に刻み込まなければならない訓戒の言葉である。

 コロサイ3:13

互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。 

 反対にもし私達が心から兄弟をゆるさないならば、天の父もまた私達を同様に扱われるだろう。

マタイ6:14,15

14 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。 

15 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。

 「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」という弟子たちの関心は、こうして神がそこにあるべしと望む場所まで降りてきたのである。そこが地上においてキリストの教会のあるべきところである。そこに真の交わりがある。