an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

ハデスにおいて(3)待ち焦がれていた信仰の義人たちの喜び

 旧約聖書が啓示するところのシェオル(ギリシャ語LXX訳ではハデス)において、「アブラハムのふところ」にいた人々は、ただ単に地上の生を終えた魂というだけでなく、信仰によって神の約束の成就を切望していた魂だったことを知ることは非常に重要である。

 彼らはその地上の生において、待ち望んでいたものを獲得することはなかった。しかし主なる神が必ずその約束したことを果たしてくださることを信じて、地上の生の最後の門を通過していたのであった。

へブル11:13-16

13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 

14 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。 

15 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。 

16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。 

へブル11:35-40

35 女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。 

36 なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。 

37 あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、 

38 (この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。 

39 さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。 

40 神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。 

Ⅰペテロ1:10-12

10 この救については、あなたがたに対する恵みのことを預言した預言者たちも、たずね求め、かつ、つぶさに調べた。 

11 彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。 

12 そして、それらについて調べたのは、自分たちのためではなくて、あなたがたのための奉仕であることを示された。それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて福音をあなたがたに宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、これは、御使たちも、うかがい見たいと願っている事である。 

 へブル11章において列記されているアベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブモーセなどの信仰の義人だけでなく、多くの預言者たちも、御子イエス・キリストの顕現と贖いのわざ、そして御子が治める神の国の到来を待ち焦がれていたのである。

 苦難の僕ヨブの叫ぶような信仰告白などは、最も明確なもののひとつではないだろうか。

ヨブ19:25-27

25 わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。 

26 わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。

27 しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。 

 そして御子イエスは地上宣教において、ハデスで待機していたアブラハムが、御子が受肉して地上に遣わされたのを見て喜んだとさえ語った。

ヨハネ8:56

あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。 

  もしハデスにいたアブラハムの魂が、御子の地上顕現を見て喜んだというならば、御子が十字架の上でいのちを捧げ、そしてハデスで待機していた信仰者たちの魂を第三の天にあるパラダイスに引き上げるために、自ら遜ってハデスまで降りてきてくださった時の喜びは如何なるものであったろうか。

 だから以下のような聖句は、聖霊の光を通して、その贖いの喜びを感じ取りながら読むべき箇所でないかと思う。

エペソ4:8-10

8 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」 

9 ・・この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。 

10 この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。・・ 

へブル2:9-17

9 ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。 

10 なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。 

11 実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。 

12 すなわち、「わたしは、御名をわたしの兄弟たちに告げ知らせ、教会の中で、あなたをほめ歌おう」と言い、 

13 また、「わたしは、彼により頼む」、また、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子らとは」と言われた。

14 このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、 

15 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。 

16 確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。 

17 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。

 また通常、解釈が難しいと言われている以下の箇所も、ハデスに下った御子が信仰の義人たちを連れてパラダイスに引き上げる際に起きた栄光の喜びが、不信仰者たちにとって「裁きの宣告」となったことを考慮すると、よりわかりやすいのではないだろうか。

Ⅰペテロ3:18-20a

18 キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。 

19 こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。 

20a これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。