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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生けるキリストを求めて(45)サラの死

創世記23:1-4

1 サラの一生は百二十七年であった。これがサラの生きながらえた年である。

2 サラはカナンの地のキリアテ・アルバすなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは中にはいってサラのために悲しみ泣いた。

3 アブラハムは死人のそばから立って、ヘテの人々に言った、

4 「わたしはあなたがたのうちの旅の者で寄留者ですが、わたしの死人を出して葬るため、あなたがたのうちにわたしの所有として一つの墓地をください」。 

 信仰者の夫と共に故郷のカルデヤのウルから見知らぬ土地に移住し、信仰によって生き抜いたサラの死。元々子供を産めない体だったが、主なる神の計画によって九十歳の時、奇蹟的にイサクを授かった。その時のサラの喜びを聖書は書き記している。

創世記21:5-7

5 アブラハムはその子イサクが生れた時百歳であった。

6 そしてサラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。

7 また言った、「サラが子に乳を飲ませるだろうと、だれがアブラハムに言い得たであろう。それなのに、わたしは彼が年とってから、子を産んだ」。  

 それからこの世を去るまでの約三十七年間、サラは夫アブラハムだけでなく、自分にも祝福の約束の言葉を与えてくれた主なる神を信じ続けた。

創世記17:15-16

15 神はまたアブラハムに言われた、「あなたの妻サライは、もはや名をサライといわず、名をサラと言いなさい。

16 わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう」。 

  しかし彼女は、死ぬまでに自分の孫どころか一人息子の結婚相手さえも見ることなく、この世を去った。実際、イサクがリベカと結婚したのは、サラの死んでから約三年後で、イサクの双子の息子エサウとヤコブが生まれたのは、イサクが六十歳の時だったからである。夫アブラハムは長生きし、自分の孫達が生まれるのを見たが、サラにはその機会は与えられなかった。

 またこの章は、妻の亡骸を葬るために、アブラハムがヘテ人のエフロンから土地を購入したことが記録されている。

創世記23:16-20

16 そこでアブラハムはエフロンの言葉にしたがい、エフロンがヘテの人々の聞いているところで言った銀、すなわち商人の通用銀四百シケルを量ってエフロンに与えた。

17 こうしてマムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、畑も、その中のほら穴も、畑の中およびその周囲の境にあるすべての木も皆、

18 ヘテの人々の前、すなわちその町の門にはいるすべての人々の前で、アブラハムの所有と決まった。

19 その後、アブラハムはその妻サラをカナンの地にあるマムレ、すなわちヘブロンの前のマクペラの畑のほら穴に葬った。

20 このように畑とその中にあるほら穴とはヘテの人々によってアブラハムの所有の墓地と定められた。 

 アブラハムの生涯で彼が所有した土地は、このマクペラの墓地以外にはないことは非常に重要な意味をもつ。カナンの土地に初めて着いたとき、主なる神から「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」という約束を受けていたアブラハムは、多くの富や三百人以上いた訓練したしもべたちの武力によって、「神から与えられた権利の行使」をし、近隣の人々を追い出し、自分の子孫のために領地を拡大することもできたはずである。しかし信仰の父アブラハムは、そのような形で神の計画の実現に「手を貸す行為」を拒んだのである(現代の政治国家イスラエルは、このアブラハムの信仰による選択をどうとらえているのだろうか)。

 これらの要素を『へブル人への手紙』の御言葉と合わせて考慮する時、アブラハムとサラの生き様が、より深い意味を持ってくるのではないだろうか。

へブル11:11-16

11 信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。 

12 このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。

13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。

14 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。

15 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。

16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。 

 これはまた、地上における王国の王であること望まず、遜り、世の罪のために十字架の犠牲死を選び、死から復活した後に父なる神の栄光へと戻られた御子イエス・キリストを予示しているものである。