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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

真に恵まれている人々

 12月8日は、カトリック教会の教義による『無原罪懐胎』を祝う日として、イタリアでは公休日である。今年は、「聖年」の始まりの儀式としてサン・ピエトロ大聖堂の「聖門」を開ける儀式が、この日にあると聞いている。

 しかし、信仰の基礎を聖書の啓示のみに置く一人の信仰者としては、「マリアの無原罪懐胎」や「聖年」という教義も、「聖門」を開ける儀式も、イエス・キリストの福音とは全く別の宗教的伝統としか捉えていない。

 ただ一日の休日という恩恵を一応受けているものとして、マリアに関して聖書が啓示している観点を、簡潔に共有してみたい。

 何より、ある特定の宗教の教義でもなく、信心深い人の宗教的感情でもなく、天使でもなく、救い主、つまり神の御子イエス・キリスト自身が、母マリアに関してどのような見方をしていたかを端的に示すエピソードをいくつか提示したい。

ルカ8:19-21

19 さて、イエスの母と兄弟たちとがイエスのところにきたが、群衆のためそば近くに行くことができなかった。

20 それで、だれかが「あなたの母上と兄弟がたが、お目にかかろうと思って、外に立っておられます」と取次いだ。

21 するとイエスは人々にむかって言われた、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」。

 主イエスはここで明らかに、「親族の特権」よりも「御言葉に聞き従う者の権利」を優先している。「母親としての特権」を使ってイエスを外へ呼び出そうという取次を無視し、御言葉に聞き従うためにイエスの権威の下に遜っていた人々を「わたしの母」「わたしの兄弟」と呼ばれた。永遠の御子イエスにとっては、血肉のつながりは霊の交わりがなければ大きな価値を持たないのである。

 もう一つのエピソードは、さらに明確である。

ルカ11:27-28

27 イエスがこう話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、「あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう」。

28 しかしイエスは言われた、「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。 

 この声を張り上げている女性は、マリアを「救い主メシアの母」として讃えているのである。これは御使いガブリエルの言葉にも準ずるものである。

ルカ1:26-31

26 六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。

27 この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。

28 御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。

29 この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。

30 すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。

31 見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。

 しかし、この女性の言葉に対する主イエス・キリストの回答は、御使ガブリエルの言葉を超えるものである。

「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。

 ここでも、主なる神の目には、「神の言葉を聞いてそれを守る人たちが受ける恵み」は、「メシアの母として受けたマリアの恵み」よりも重要であることが明確に啓示されているのである。

 勿論、「無原罪懐胎」に関して教義的検証を徹底的にすることは可能であるが、ここでは主として崇める御子イエスの言葉に集中し、果たして自分が「御言葉を聞き従う恵み」を享受しているかどうか、自省しよう。御言葉を聞き、その知識はあるが、宗教的伝統(それはカトリック教会の伝統だけとは限らない)に縛られて、それを守ることで満足し、御言葉を蔑ろにしていないだろうか。私たちは自分の権利を捨てて「家の内」に入り、病を癒し罪を赦す権威をもつ方の足元に跪いているだろうか。自分の賛美の声よりも、天からの御使いの声よりも、幻や夢の中の声よりも、福音の中に啓示されている救い主の声に耳を傾け、それに聞き従えるように祈り求めているだろうか。

 それこそ、恵み深い神が私たち罪びとに与えようとしている真の恵みであり、そしてその恵みには、特定の場所も日も祭儀も存在しない。イエス・キリストがすべてである。

 

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