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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「マンハッタンの成功」と「ゴルゴタの失敗」

十字架の言 聖書による検証 カトリック教会関連

 インターネット上で、フランシス法王が先月、ニューヨークの聖パトリック大聖堂におけるスピーチの中で、「イエス・キリストの十字架の死は失敗だった」と語ったことが話題になっている。

 以下のサイトでは、スペイン語のスピーチを英訳したものである。

abcnews.go.com

 以下がその「問題のスピーチ」の部分の抜粋である。

The cross shows us a different way of measuring success. Ours is to plant the seeds. God sees to the fruits of our labors. And if at times our efforts and works seem to fail and not produce fruit, we need to remember that we are followers of Jesus Christ and his life, humanly speaking, ended in failure, the failure of the cross.

 このスピーチはカトリック聖職者を含めた信者に向けて語られたもので、感謝の心や犠牲の精神が、自分たちの労苦をこの世の価値観で量ることによって、徐々に失われている危険に対して、十字架の例を持ち出しているのである。

私訳

十字架は私たちに成功を量る異なる方法を見せてくれます。私たちの(任務)は、種を蒔くことです。神は私たちの労苦の成果を引き受けてくださるのです。そしてたとえ時に私たちの努力や仕事が失敗に見え、成果を生み出さないとしても、私たちはイエス・キリストの弟子であり、彼の生涯は、人間的に言えば、十字架の失敗という、失敗に終わったことを思い出す必要があるのです。

 スペイン語のスピーチの中で、「人間的に言えば」という、教会ではよく使われる表現を強調していた。おそらく彼は、以下の聖句が念頭にあったのだろう。

Ⅰコリント3:6-8

6 わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。

7 だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。

8 植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。

Ⅰコリント15:58

だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。

へブル6:10-12

10 神は不義なかたではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない。

11 わたしたちは、あなたがたがひとり残らず、最後まで望みを持ちつづけるためにも、同じ熱意を示し、

12 怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。 

 私には勿論、法王の言動を弁護する理由はないし、カトリックの教義の非聖書性に関しては、このブログにおいても時に応じて検証してきた。今回のスピーチも最後まで読めば、明らかにマリア崇拝の霊が顕れているし、カトリック教義を一通り知る者ならば、今回の法王のスピーチは、特に想定外の要素はないはずである。

 だからこのニュースをもとに、私たち信仰者が「教皇が十字架を否定した!」「反キリスト!」などと感情的に糾弾をするのは、宣教という観点においても好ましくないと思う。

 むしろ読者の方には、このニュースをイエス・キリストの十字架について、疑問をもつ人々と共に省察する機会として捉えてはどうだろうか、と提案したい。

 御子イエス・キリストが人となり、地上に来られた目的は何であったか。もし彼の目的が、イスラエルの民をローマ帝国の覇権から解放し、使徒たちと共に地上を神の国に造り変えるというものであったとしたら、確かに十字架は「敗北」であり、「挫折」であり、「失敗」であったろう。しかし神の永遠の目的は、それよりもはるかに深遠で崇高であった。

マルコ10:45

人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。 

ヨハネ18:36-37

36 イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。

37 そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。

テトス2:14

このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。 

Ⅰペテロ3:18

キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。 

へブル9:25-28

25 大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。

26 もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。

27 そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、

28 キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。

  このように、御子は十字架の上で完全に神の永遠の目的を遂行し、その贖いのわざを完全に行ったゆえ、死の中から聖霊によって復活したのである。

ピリピ2:6-11

6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、

7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、

8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。

9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。

10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、

11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

 「地上におけるキリストの代理」という公の肩書をもつ純白の服をきた人物が、「十字架の失敗」の例を大聖堂で語った日、7000人の警官や警備員が配備され、マンハッタンの道路は封鎖された。群衆はスピーチに感動し、世界中のマスコミがそれを報道した。

 むしろ私には、「人間的にいうところの」このマンハッタンでの「大成功」と、二千年前のゴルゴタの丘で十字架に架けられて死んだ一人の男の「失敗」の対比が、何よりも主なる神からの強烈なメッセージになっていると思えるのだが。

 

追記(2015年10月6日)

 2014年9月14日のサン・ピエトロ広場における法王フランシスのアンジェラスに、彼の十字架の教義に関する言及がある。Angelus, 14 settembre 2014 | Francesco(英語の翻訳文もある。)

 その中には、「La Croce sembra decretare il fallimento di Gesù, ma in realtà segna la sua vittoria. 十字架はイエスの失敗を布告しているように見えるが、現実には彼の勝利を告げている。」「La Croce di Gesù è la nostra unica vera speranza!  イエスの十字架は、私たちの唯一正真正銘の希望です。」という明確な言葉が残されている。

 だから聖パトリック大聖堂で語られたスピーチの一文を抜き出して、「教皇フランシスは十字架を否定した!」「反キリスト!」などと書くのは控えるべきである。

 カトリックの教義は、「信仰のみによる義認」という聖書の救いの根幹となる教えを公に否定しているので、その点においてすでにイエス・キリストの十字架の死を無に帰しているし、また聖パトリック大聖堂のスピーチにおいても上述のアンジェラスにおいても、最後で非聖書的なマリア崇拝を薦めている。

ガラテヤ2:21

わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。

ガラテヤ5:4

律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。

 もし私たちが聖書の教えに忠実であろうと求めているのならば、批判の言葉が表層的・感情的な中傷にならないように、自分自身に気をつけなければならない。それがまさに私たちが「十字架の敵」としてではなく、「十字架の友」として歩んでいるかをこの世に示すことになるからである(ピリピ3:18参照)。