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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『ローマびとへの手紙』(7)使徒パウロの切なる願い

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ローマ1:10-15

10 わたしは、祈のたびごとに、絶えずあなたがたを覚え、いつかは御旨にかなって道が開かれ、どうにかして、あなたがたの所に行けるようにと願っている。このことについて、わたしのためにあかしをして下さるのは、わたしが霊により、御子の福音を宣べ伝えて仕えている神である。

11 わたしは、あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいからである。

12 それは、あなたがたの中にいて、あなたがたとわたしとのお互の信仰によって、共に励まし合うためにほかならない。

13 兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしはほかの異邦人の間で得たように、あなたがたの間でも幾分かの実を得るために、あなたがたの所に行こうとしばしば企てたが、今まで妨げられてきた。

14 わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。

15 そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。 

  「わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。」

 使徒パウロは、この切なる願いのために何度も祈り、そして実際に何度もそれを実行しようと計画したが、この手紙を書いていた時点では実現に至っていなかったことが理解できる。勿論、「御旨にかなって」と書いているから、祈りの中で何度もその願いを主なる神の御前に提示すると共に、「私の思いではなく、あなたの御心がなりますように」と祈っていたのだろう。

 使徒行伝に記述されているとおり、使徒パウロはその後、エルサレムで捕らえられ、囚人としてカイザリヤで二年も収監され、その後、鎖に繫がれたままローマで連行された。その途中、何度も命を落とす危険な目にあった。私たちは静かに聖書を読みながら、その道程を読むことができるが、この手紙を書いていた時点では、使徒パウロはそのような厳しい形で自分の願いが実現するとは想像していなかっただろう。「どうにかして」というパウロの言葉が実に重い意味を持っている。

 様々な願いやビジョンをもつことは、必要なことだろう。それらについて、神は祈りにおいてご自身に提示するよう、勧めておられる。

ピリピ4:6-7

6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。

7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 

 そして成長した信仰者は、「御心がなりますように」という祈りを付け加えることを心得ている。

 ただ、私たちのその祈りを真摯に取り扱って下さり、まさに「御心のままに」返答されるとき、私たちはそれを恭順に受け入れようとしないことが多い。なぜなら、その主なる神からの返答は、私たちの時間の観念とは異なり、また私たちが判断する善ともしばしば異なるからである。

 パウロにとっても、鎖に繫がれた囚人としてローマへ行くよりも、「異邦人の使徒」として、テモテやルカやテトスを引き連れて行くことの方を選んだことだろう。自分が『ローマびとへの手紙』という、当時誰も書いたことがなかった「神学書」を送った主対面のローマの信徒たちのところにいくのに、二人のローマ兵士に鎖で繋げられた状態で連行されてていくなんて、なんということだろう。

 純白の服も、防弾ガラスで保護された車も、歓声を上げる群衆も、スポットライトもない。パウロがもっていたものは、「御子の福音を宣べ伝えたい」という、切なる願いと「負債者」として強烈な責任感だったのである。

 主なる神よ、使徒パウロがローマの聖徒らに分け与えたいと切望していたものを、聖霊によって、今の時代に生きる私たちに分け与えてください。

 自己欺瞞の誘惑の中で、眠りかけている私たちに。