ピリピ2:6-8
6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
キリストは御子としてまた「言(ことば)」として、永遠の時から父なる神と共にいた。彼自身、神の身分、神のかたち、神の姿であったが、その地位、立場、特性を利己的に固守しようとはせず、遜って自分を無にし、しもべとなり、人間の姿になられた。
6節
(新共同訳)キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
(前田訳)彼は神の形にいましつつも、神とならぶことに捕らわれず、
(塚本訳)彼は(先には)神の姿であり給うたが、神と等しくあることを棄て難いことと思わず、
無限の神が有限の一人の人間に、万物の主がしもべに、いと高き方が地上の最も低い所まで降りてくださったのである。
エペソ4:8-10
8 そこで、こう言われている、「彼は高いところに上った時、とりこを捕えて引き行き、人々に賜物を分け与えた」。
9 さて「上った」と言う以上、また地下の低い底にも降りてこられたわけではないか。
10 降りてこられた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのである。
律法の唯一の立法者であり審判者である方が、「神の子である」という理由で、罪人の裁きによって死刑に定められ、十字架に架けられた。人々は、キリストが神の子であるという罪状で死刑に定めた上に、人類の救いのために自ら遜られたキリストに向かって、神の子であることを証明してみろ、と嘲りながら挑発した。
マタイ27:39-44
39 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって
40 言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。
41 祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、
42 「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。
43 彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。
44 一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。
「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず」(Ⅰペテロ2:23)、人類の罪の赦しのために十字架にとどまり、そこから降りようとしなかったことが、イエスが神の子であることを公に啓示していることも気付かず、そこを通りかかった人々は頭をふり、あざけりながら十字架の前を通り過ぎていった。
もし彼らが十字架のキリストの前に留まって、目を背けたくなる現実を見つめていたら、あるいはローマの百卒長のように神を崇めるようになっていたかもしれない。あるいは、その場にいて最初はイエスを罵っていた群衆にように、自分の胸を打ち、良心の激しい痛みによる悔い改めに導かれていたかもしれない。
ルカ23:47-48
47 百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。
48 この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。
全知全臨の神が荒削りの木に釘で打ち付けられ、命の君が死に、祝福の源泉が呪いとなった。この深遠な啓示の前をどうしたら「通り過ぎる」ことが出来ようか。その人間の思惑や想像を遥かに超える神のわざの前に、畏敬の念をもって跪き留まる者だけが、そのうちに神の義と愛の完全な啓示を見出すことができるのである。