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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「永遠の聖霊」によって、「永遠のあがない」が全うされ、「永遠の国」が与えられた。

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へブル9:11-15

11 しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、

12 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。

13 もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、

14 永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。

15 それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。 

 「永遠の聖霊」「永遠のあがない」「永遠の国」

 御子イエスは「永遠の聖霊によって」、ご自身の命を十字架の上で捧げ、その死によって(「血」はその犠牲の死を証明するものである)、「永遠の贖い」を全うされた。それは御子を信じる者が、約束された「永遠の国」を受け継ぐためである。

 「永遠」とは、単に「時間的制限を超えた」という意味ではなく、空間という概念さえも超えた、不変でありながら活性であるという、まさに「生ける神のいのち」そのものの性質である。

 御子の死が「永遠の聖霊」によるものであるということは、霊である神のうちに犠牲の死の本質が内在していることを意味する。御子の十字架の死は、時間の流れの中のある時点において、宇宙空間のある一か所で起きた出来事であると共に、時間も空間も超越する存在である永遠の神の意志そのもである。

 旧約聖書において御子の贖いの死が「主の腕の顕れ」として預言され、神の民がその「永遠の腕」に支えられていることが啓示されている。

申命記33:27a

とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある

イザヤ52:13-15;53:1-5

13 見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。

14 多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである――

15 彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。

1 だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか

2 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。

3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 

 永遠の聖霊によって捧げられた御子の死は、彼を信じる者の良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者とすることができる、と啓示されている。時間と空間の制限の中に歩む私たちは、目先のことに囚われ、自分のビジョンや欲望を実現することに夢中となり、まるで一枚の絵を観るように私たちの過去・現在・未来におけるすべてを見る、「永遠」という神の視点を意識から追い出して生きている。

 今一度、「心に与えられた聖霊によって、生ける神に仕える」ということが、何を意味するか、祈りの中で光を求めよう。御子イエスの死が、そのような者にすることができると啓示しているのだから。

 主よ、十字架の御前に静まる心を与えてください。