あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。
Ⅱコリント13:5(口語訳)
あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。
文語訳
なんぢら信仰に居るや否や、みづから試み自ら驗しみよ。汝らみづから知らざらんや、若し棄てらるる者ならずば、イエス・キリストの汝らの中に在す事を、
岩波訳
あなたがたが信仰のうちにあるかどうか、あなたがたは自分自身を検証しなさい。自分自身を吟味しなさい。それともあなたがたは、自分自身を認識しないのか。すなわち、イエス・キリストが〔まさに〕あなたがたのうちに〔おられる〕ということを。もしも認識しないのなら、あなたがたは失格者である。
新共同訳
信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。
前田訳
あなた方が信仰に生きているかどうか、自らをためし、自らをお調べなさい。イエス・キリストがあなた方のうちにいますことをご存じないのですか。それはあなた方が不適格でない限りのことですけれども。
新改訳
あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。――あなたがたがそれに不適格であれば別です。――
塚本訳
あなた達は(わたし達の使徒たる証拠を求めるより、)自分に信仰があるかどうか、自分自身を吟味し、自分自身をしらべてみよ。あるいは、もう(自分に信仰があって)イエス・キリスト(の霊)が自分の中におられることが、わかっていないのではないか。それではあなた達(の信仰)は明らかにまがい物なのだ!
信仰者が反省し、吟味し、検証し、試し、調べるべきは「自分自身」であり、「信仰に立っているかどうか」であって、「信仰の対象の信憑性」ではない。「自分自身の心のうちのキリストがおられるかどうか」であって、「キリストの教えが真理かどうか」ではない。
もちろん信仰を持っていない者が、救いを得させる信仰を得るまでには、真理に対する疑いや戸惑いがあるのは当然である。しかし、一度キリストの十字架を通して新生体験をした信仰者は、「私は道であり、真理であり、命である」と宣言したイエス・キリストが絶対的真理であることに疑いを持たない。たとえ何かの誘惑で疑いを持つことがあっても、それが主の心を喜ばすことではないと認識する良心を持っている。
「イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか」の「悟る」と和訳されている原語(ἐπιγινώσκω epiginōskō)は、「完全に知る、精通する、熟知する」という意味をもつ。つまり「イエス・キリストが自分の心のうちにいることを完全に知る、確信する」という意味である。そこには疑いも迷いもない。そして、もし自分の心を吟味してみてそのような確信がないとするならば、その人は「失格者」「不適格」「にせもの」であり、その信仰は「まがい物」であるとまで宣告されているのである。
確かなことに確信を持つことは「悪」ではない。確信できることに疑いをもつことが罪なのである。誰も騙されてはならない。
ローマ14:22-23
22 あなたの持っている信仰を、神のみまえに、自分自身に持っていなさい。自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、さいわいである。
23 しかし、疑いながら食べる者は、信仰によらないから、罪に定められる。すべて信仰によらないことは、罪である。
ヤコブ1:5-8
5 あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
6 ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。
7 そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。
8 そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。