an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

刈り入れが終る前に

『夕ごとに』チャールズ・ハッドン・スポルジョン

12月31日

 

刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない。(エレミヤ8:20)

 

救われない! 愛する読者よ。これがあなたの悲しむべき状態か。来るべきさばきが警告され、命がけで逃げよと命じられているこの時に、あなたは救われていないのか! あなたは、救いの道を知っている。あなたはそれを聖書の中で読む。あなたはそれが、講壇の上から話されるのを聞く。友人を通して、それがあなたに説かれる。それにもかかわらず、あなたはそれを無視しており、そのゆえに救われていない。主が生きている者と死んだ者とをさばかれる時、あなたは弁解のことばもないであろう。聖霊は、あなたがかつて聞いた説教のことばに多少でも祝福を与えられた。そして神のご臨在によってあなたが力づけられた時もあった。しかし、あなたはまだキリストなしである。

 

これらのすべての望みの多い季節は、来て、また去っていった。――あなたの刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。――しかしあなたはまだ救われていない。歳月は次々と来て、また去り、永遠に至る。そしてあなたの最後も年も、すぐにやって来るであろう。青年期は過ぎ、壮年期も過ぎようとしている。しかし、あなたはまだ救われていない。

 

私に質問させていただきたい。あなたは結局は救われるのか、と。そのような見込みがあるだろうか。最も幸運な季節はすでに去ったが、あなたはまだ救われていない。これから先、他の社会があなたの状態を変えるだろうか。あなたに対して尽くされた数々の手段は失敗に終わった。忍耐強く、失敗に終わったのである。

 

あなたに対して、これ以上いったいどうすればよいであろう。患難も繁栄も、あなたに何の印象も与えなかった。涙も祈りも説教も、あなたの荒れ果てた心にはむだであった。あなたが救われる可能性は、もうなくなってしまってはいないか。あなたは、死が希望も戸を永久に閉ざしてしまうまで、現状を続けるのではないか。このような想像から、あなたは後ずさりするのか。しかし、それは最も合理的な考え方なのである。何度となく入浴を拒んだ者は、結局最後まで汚れたままでいるのではないか。好機がこれまで決して来なかった人間に、どうしてこれから先、それが来ることがあろう。それが決して来ないとして恐れることは、論理的である。そしてあのペリクスのように、あなたは地獄に行くまで好機を見いだすことはないであろう。

 

おお、その地獄はどんなものか。そしてあなたが、まもなくそこへ投ぜられる恐るべき可能性について考えてみよ!

 

読者よ。あなたが救われないで死んだと想像してみよ。あなたの運命は、どのようなことばによっても描写することはできない。あなたの恐れるべき状態を涙と血をもって書き、うめきと歯ぎしりをもって語れ。あなたは主の栄光からの、そして主の御力の栄光からの、永遠の破滅をもって罰せられるであろう。私は願う。主にある者としての私の声が、あなたを驚かせ、神の必要をあなたに悟らせるように。

 

おお、賢明になれ。遅くならないうちに・・・。そして新しい年の始まらないうちに、全く救うことのできるイエスを信じよ。この最後の時間を黙想のために聖別せよ。そしてもし、深い悔い改めの心があなたのうちに起こされればよい。そしてもしその結果、イエスにある謙遜な信仰に導かれるならば、それにまさるすばらしいことはない。あなたの罪が赦されないうちに、この年を去らせてはならない。真夜中の新年の鐘の音を、喜びのない霊の上に響かせるな!

 

今、今、今、信じなさい。そして生きなさい。

 

いのちがけで逃げなさい。

うしろを振り返ってはいけない。

この低地のどこででも立ち止まってはならない。

山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。

 問題は、私たちが「刈り入れ時」を見極められないことにある。まだ四か月ある、まだ大丈夫、と。しかし、弟子たちが見極められなかった「時」を「収穫の主」イエス・キリストはご存じであった。

ヨハネ4:35

あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。  

 だからこそ、今日主が私たちに語りかけているのなら、心をかたくなにしないで、主の前に共に遜ろう。刈り入れのために召された者も、色づいた麦穂も。