an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

弱さのうちに顕れるキリストのいのち(3)老い

ルカ2:25-38

 乳児であったイエスが両親に抱えられてエルサレムの宮に初めて入った時、主なる神は二人の非常に高齢な男女の老人たち、シメオンとハンナを証し人として選ばれた。ハンナは八十四歳の預言者であった(37節)。シメオンの年齢は書かれてはいないが、「主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた」(26節)と「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、御言葉どおり、安らかに去らせてくださいます」(29節)という言葉から推測すると、いつ死を迎えてもおかしくない年齢、むしろまだ元気で生きているのがどう考えても不思議なぐらいの年齢だったと思われる。

 

 主の選びは、本当に人間の知恵を超えて美しい。あの当時、イスラエルの民の中には信仰が篤く、かつ「もう少し若い」人はいなかったのだろうか。エネルギーと経験のバランスがとれた壮年層の証し人を見つけられなかったのだろうか。私はいただろうと思う。しかし父なる神は、あえてこの二人の非常に高齢な老人を、ご自身の御子の栄光のために用いられた。

 

 ある作家は「若さは若者にはふさわしくない」と皮肉ったが、青少年層の無邪気でひたむきな証しは、元気があっていいと思う。壮年層の知恵と経験に支えられた行動的証しは教会を動かす。しかし老年層の、静かだが雄弁、控えめだが説得力に満ちている数々の証しは実に素晴らしい。

 

 「若さ」が崇拝される現代では、「老い」はタブー化され、まるで「不用品」のように見えないところに追いやられている。しかし聖書の神は、そんな追いやられ蔑まれた「老い」を、ご自身の栄光のために用いられる。ちょうど、高齢の使徒ヨハネが流刑の地パトモス島で、終わりの時に関する主イエス・キリストの啓示を受け、諸教会に書き送ったように。

 

 私はそんな神を本当に誇りに思う。

 

詩編92:12-15

正しい者はなつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏のように育ちます。 

彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭に栄えます。 

彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、 

主の正しいことを示すでしょう。

主はわが岩です。主には少しの不義もありません。