読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

ニネべの東

ヨナ3:10;4:1-11

3:10 神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。

1 ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、

2 主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。

3 それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。

4 主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。

5 そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。

6 時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。

7 ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。

8 やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。

9 しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。

10 主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。

11 ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。 

 預言者ヨナは、主なる神の命令「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」(1:2)を何とか無事遂行した後、自国イスラエルにすぐ戻って休もうとはしなかった。かといって、12万人の町全体が主なる神の言葉に悔い改めたことを喜び、町の人々と共にいようともしなかった。

 ただ一人、ニネベの町の東に小屋を立て、「自分の主張」や「自分の感情」、「自分の弱さ」に呑み込まれ、翻弄されていたのである。同じ孤独な状態でも、第二章に記録されている「魚の腹の中のヨナ」の態度とは、鋭い対比を為している。

 ヨナは主なる神の正しい知識をもっていた。

「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。

  その知識は、モーセの律法に記されている啓示に準ずるものであった。

出エジプト34:6

主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、 

  確かにヨナは主なる神の正しい知識を持っていたが、その主なる神の豊かな思いや計画に関しては、全く自分のものとして分かち合っていなかった。神の憐みの中に悔い改めを見出していたニネべの町から離れた所に一人でいたヨナのそのポジションは、彼の霊的なポジションをそのまま表している。

 御子イエスが語ったたとえ話の中で、放蕩生活から悔い改めて帰ってきた弟のための祝宴に参加しようとせず、「あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ」という父親の思いも汲み取れず、一人憤って「自分の長男としての権利」を主張していた兄の態度と共通するものである。

ルカ15:11-32

11  また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。

12 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。

13 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。

14 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。

15 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。

16 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。

17 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。

18 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。

19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。

20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。

21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。

22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。

23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。

24 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。

25 ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、

26 ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。

27 僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。

28 兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、

29 兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。

30 それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。

31 すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。

32 しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。 

 正しい知識を得るために祈り努めると同時に、自分が今どこに立っているのか、つまり神の恵みの外で一人、「自分の主張」や「自分の感情」、「自分の弱さ」に翻弄されていないか、絶えず確認しながら前に進もう。

へブル12:15

気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。

神のあかし:「これ以上、なんの証拠がいるか。」

ルカ22:66-71

66 夜が明けたとき、人民の長老、祭司長たち、律法学者たちが集まり、イエスを議会に引き出して言った、

67 「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい」。イエスは言われた、「わたしが言っても、あなたがたは信じないだろう。

68 また、わたしがたずねても、答えないだろう。

69 しかし、人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」。

70 彼らは言った、「では、あなたは神の子なのか」。イエスは言われた、「あなたがたの言うとおりである」。

71 すると彼らは言った、「これ以上、なんの証拠がいるか。われわれは直接彼の口から聞いたのだから」。 

 長老、祭司長たち、律法学者たちは、御子イエスの口から神の子であるという証言を直接聞いて、「これ以上、何の証拠がいるか。われわれは直接彼の口から聞いたのだから」と議会において宣告した。

 議会は御子イエスを神の御名を穢した罪に定め、殺すためにそのように宣告したわけだが、皮肉なことに、これは議会の邪悪な動機を超越して永遠の真理を現している言葉である。つまり偽ることのできない神の子自身が直接、神の子であることを啓示しているのだから、これ以上の証拠など必要ないということである。

 人間の何千、何万という知識や知恵の言葉も、御子自身が提示したこの一つの証拠の絶対的価値に比べたら、取るに足らないものだろう。もし70人近い権力者で構成されていた議会において訴えられていたイエスが、実際にはそうではないのに「私は神の子である」と主張していたならば、確かに律法によって冒涜の罪に定められることは正当で、彼の死は自身の罪の責任を負ったものだったろう。復活も、その後の聖霊の注ぎも、弟子たちによる福音宣教もあり得なかっただろう。

 しかし父なる神は復活を通して、イエスが永遠の御子であることを世に知らしめたのである。

ローマ1:2-4

2 この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、

3 御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、

4 聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。 

 4節に「神の御子と定められた」とあるが、勿論、旧約聖書において予示されていたように、御子は永遠の存在であるから、「復活によって御子となった」という意味ではなく、「復活によって御子として公に宣言された」ということである。その点、新改訳はより明確である。

聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。 

 つまり父なる神は御子を死から復活させたことによって、御子自身の証しが確かなものであることを示したのである。

Ⅰヨハネ5:9-11

9 もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。

10 神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。

11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

ヨハネ8:13-18

13 するとパリサイ人たちがイエスに言った、「あなたは、自分のことをあかししている。あなたのあかしは真実ではない」。

14 イエスは彼らに答えて言われた、「たとい、わたしが自分のことをあかししても、わたしのあかしは真実である。それは、わたしがどこからきたのか、また、どこへ行くのかを知っているからである。しかし、あなたがたは、わたしがどこからきて、どこへ行くのかを知らない。

15 あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしはだれもさばかない。

16 しかし、もしわたしがさばくとすれば、わたしのさばきは正しい。なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである。

17 あなたがたの律法には、ふたりによる証言は真実だと、書いてある。

18 わたし自身のことをあかしするのは、わたしであるし、わたしをつかわされた父も、わたしのことをあかしして下さるのである」。 

  この「神の証し」は、権力者たちの「証し」と強烈な対比をなしている。イエス・キリストに関して人間が様々な解釈をし、それを世に知らしめようとも、「必要十分」なのは、御子自身が語り、父なる神が立てた「神の証し」である。

解釈の基本原理:霊的シンボリズムと実践的教え(第一コリント5章の例)

Ⅰコリント5

1 現に聞くところによると、あなたがたの間に不品行な者があり、しかもその不品行は、異邦人の間にもないほどのもので、ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということである。 

2 それだのに、なお、あなたがたは高ぶっている。むしろ、そんな行いをしている者が、あなたがたの中から除かれねばならないことを思って、悲しむべきではないか。 

3 しかし、わたし自身としては、からだは離れていても、霊では一緒にいて、その場にいる者のように、そんな行いをした者を、すでにさばいてしまっている。 

4 すなわち、主イエスの名によって、あなたがたもわたしの霊も共に、わたしたちの主イエスの権威のもとに集まって、 

5 彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである。 

6 あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。 

7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。 

8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。 

9 わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、 

10 それは、この世の不品行な者、貪欲な者、略奪をする者、偶像礼拝をする者などと全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる。 

11 しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない、ということであった。 

12 外の人たちをさばくのは、わたしのすることであろうか。あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。外の人たちは、神がさばくのである。 

13 その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。 

 この章において、使徒パウロはコリントの教会の中で起きていた深刻な問題に関して、真正面から向き合い、歯に衣着せぬ戒告を書き送っている。その内容はその罪の重大さに比例するかのように峻厳で、「教会の交わりからの除外」と「裁き」というものであった。

  • 「教会の交わりからの除外」

2節「そんな行いをしている者が、あなたがたの中から除かれねばならないこと」

13節「その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。」

  • 「裁き」

3節「そんな行いをした者を、すでにさばいてしまっている。」

12節「あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。」

 結局、この恐ろしい事態は当事者の真摯な悔い改めによって、健全な解決に至ることになるのだが(Ⅱコリント2:5-8参照)、使徒パウロはここである一つのシンボルを使い、コリント教会に対してなぜ「教会の交わりからの除外」と「裁き」という厳しい対応をしなければならないかを説明している。

6 あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。

7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。

8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。

 つまりモーセの律法の中にある過ぎ越しの祭のシンボルを利用して、以下のような三つの霊的真理を伝えている。

  • 「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。」 御子イエス・キリストが「世の罪を取り除く神の子羊」として、全人類の罪を背負って十字架の上で犠牲の死を遂げてくださったという事実。
  • 「あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。」 その御子の死によって、信じた者はその信仰のゆえ、義なる神に義と見なされ、罪の清めを受け、「パン種のない者」と見なされる。
  • 「新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。」 主なる神の目に信仰者は罪のない者として見なされるが、それは信仰によって受け入れるものであって、地上の生活において信仰者はまだ「肉の弱さ」の誘惑、ここでいう「古いパン種」が混入する可能性から解放されていないのである。だからこそ、「古いパン種を取り除きなさい。」という戒めが現実的なものとなるのである。

 つまり、使徒パウロはこの5章において、三つの段階を踏んだプロセスを語っているのである。

  • 地域教会における現実的な罪の問題の認識
  • 聖書のシンボルを使った霊的真理の啓示
  • その霊的真理に基づく実践的命令

 このようにこの第5章は、非常に明確な霊的論理性をもった文脈をもっているので、細部の解釈もその基準に従って行うべきである。例えば8節の「パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。」という箇所を引用して、「信仰者はモーセの律法に書いてあるように、酵母菌の入っていないパンによって、定められた日に過ぎ越しの祭を行うべきである」という実践的な教えを引き出すことはできないのである。なぜならこの文節は霊的な次元のシンボリズムを扱っており、キリストは実際に動物の子羊として犠牲になったわけではなく、また信仰者も回心によって物質的に「パン種のない者」になった(!)わけではないからである。7節の「事実」とは、霊的現実について語っているのである。

 そして霊的現実について啓示している以上、「祭をしようではないか」という勧告は同じ使徒パウロによる以下の霊的勧告に準じて解釈すべきである。

ローマ12:1-2

1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

 使徒ペテロの勧告も、パウロのこの霊的礼拝に関する教えを裏付けるものである。

Ⅰペテロ2:5

この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。 

 何よりもこれは御子自身が語っていた、父なる神が私たちに求めている霊的礼拝である。

ヨハネ4:23-24

23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。

24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

 「ヘブライ的解釈」という尤もらしい前提による「古い種」は取り除かれなければならない。

ブログをはじめて4年

 5月20日で、このブログをはじめて丸4年が経過した。記事の総数は1021、PVの総数は235000。

 大きな試練の時期にはじめたブログであったが、時には「憑りつかれた」ように、時には悪戦苦闘しながら、それでも気負わず、御子の恵みのうちにある自分に自然なかたちでブログと向き合ってこれたと思う。

 継続して読んでくださっている世界各地の読者の方々にも、感謝の思いで一杯である。

 これからどのくらい書き続けられるかはわからないが、今まで以上に私の救い主イエス・キリストの御名を崇め、唯一の神だけに栄光を帰すためにこのブログを捧げていきたいと思う。

ピリピ1:20

そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。 

 

テストーニ通りでみかけた情景

f:id:eastwindow18:20170517110605j:plain

 通りがかったテストーニ通りのある建物の入り口から見た情景。廊下の奥から射し込む光が、モザイクの床面に青白く映り込んでとても美しい。ちなみに床面にある「Salve」は祝福の挨拶「幸いあれ」、もしくは口語的な使い方で「こんにちは」というニュアンスをもつ。

 この建物があるところは、「ミッレ」と呼ばれている12世紀頃の城壁に隣接していた場所で、近くには「Porta Nuova ポルタ・ヌォーヴァ」という城門が残っている。つまり当時は、18あった門の一つのこの門から、ボローニャの町に入っていたということである。

f:id:eastwindow18:20170517110212j:plain

 

f:id:eastwindow18:20170520174101p:plain

 黄色い線が、「ミッレ」と呼ばれている城壁。

 

 

「あなたがたは神々である」に関する検証

ヨハネ10:30-39

30 わたしと父とは一つである」。

31 そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた。

32 するとイエスは彼らに答えられた、「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」。

33 ユダヤ人たちは答えた、「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」。

34 イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。

35 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)

36 父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。

37 もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。

38 しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」。

39 そこで、彼らはまたイエスを捕えようとしたが、イエスは彼らの手をのがれて、去って行かれた。

 ユダヤ人たちは御子イエスの「わたしと父とは一つである」という言葉が何を意味しているか、十分に理解した。実際、「あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」と解釈し、そのことが受け入れられず「神に対する冒涜である」と断罪し、石打ちの刑で御子を殺そうとしたほどであった。

 そのユダヤ人たちの訴えに対して、御子は詩篇82篇の一節を引用し、自分の立場を弁明している。

34 イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。

35 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)

36 父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。

  神の言を託された人々(新改訳:「神のことばを受けた人々」)、つまり神の律法を託され、民を公平と正義によって裁く務めを任されていた人々が、聖書の中で「神々」と呼ばれているのなら、なおさら父なる神に聖別され、御心を行うために世に遣わされた自分の事を「神の子」と言って、なぜ神を冒涜していることになるのだ、と弁明しているのである。

 ここで御子イエスは詩篇の聖句「わたしは言う、あなたがたは神々である」を引用し、ご自身の神性を立証しているのであって、「あなたは人間であるのに、自分を神としている」と糾弾していた人々に対して「あなたがたも神のことばを託されているのだから、神々なのですよ」と人間の神性を立証しようとしていたのではないのである。

 私がこのように書くのには理由がある。なぜなら、このヨハネ10:35の聖句を根拠に、「キリストにある者は全く新しいタイプの存在、つまり神々である」と主張する者がいるからである。

 御子が引用した詩篇そのものを検証することでも、そのような主張がナンセンスであることがわかる。

詩篇82

アサフの歌

1 神は神の会議のなかに立たれる。神は神々のなかで、さばきを行われる。

2 「あなたがたはいつまで不正なさばきをなし、悪しき者に好意を示すのか。〔セラ

3 弱い者と、みなしごとを公平に扱い、苦しむ者と乏しい者の権利を擁護せよ。

4 弱い者と貧しい者を救い、彼らを悪しき者の手から助け出せ」。

5 彼らは知ることなく、悟ることもなくて、暗き中をさまよう。地のもろもろの基はゆり動いた。

6 わたしは言う、「あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。

7 しかし、あなたがたは人のように死に、もろもろの君のひとりのように倒れるであろう」。

8 神よ、起きて、地をさばいてください。すべての国民はあなたのものだからです。  

  まず第一に、1節の「神」と「神々」は同じ原語【אֱלֹהִים 'ĕlôhı̂ym エロヒム】(複数形)であるが、「神」の場合、動詞「立たれる」「さばきを行う」が単数形であるので、神学的に三位一体の神を啓示しているのに対して、「神々」の場合は2節や6節においても動詞や代名詞がそのまま複数形であるので、三位一体の神と同列に解釈することは決してできないのである。

 さらに文脈を読めば、ここで「神々」と呼ばれ、御子が「神の言を託された人々」と説明しているイスラエルの民の裁き人たちに対して、神はその不正を糾弾し、託された御言葉の義に従って行動するよう、命じているのである。

「あなたがたはいつまで不正なさばきをなし、悪しき者に好意を示すのか。〔セラ

弱い者と、みなしごとを公平に扱い、苦しむ者と乏しい者の権利を擁護せよ。

弱い者と貧しい者を救い、彼らを悪しき者の手から助け出せ」。

 そしてその不正の犯す「神々」の結末を宣告している。

彼らは知ることなく、悟ることもなくて、暗き中をさまよう。

わたしは言う、「あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。

しかし、あなたがたは人のように死に、もろもろの君のひとりのように倒れるであろう」。

 このように主なる神から聖なる啓示の言葉を託され、神の民をその御言葉に従って治めるように権威と責任を与えられていた人々が、不正を行い、公義を曲げ、その当然の帰結として暗闇を彷徨い、やがて死の滅びが待ち受けていることを宣告されていた。ここで暗示されている神のアイロニーのニュアンスを見逃すことはできない。

 だからこそ詩篇記者アサフは、「神々」ではなく、唯一のまことの神に公正な裁きを祈り求めているのである。

神よ、起きて、地をさばいてください。すべての国民はあなたのものだからです。  

 このように詩篇をそのまま読んでも、決して「新しく生まれた信仰者はエロヒムである」という解釈を引き出せるような文脈は存在しないのである。

 確かに神の無限の愛によって、御子を信じた私たちは「すでに神の子」とされ、「今や神の子」である。しかし地上に生きる間は「わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない」(新改訳:「後の状態はまだ明らかにされていません」)。この地上における信仰の戦いを全うし、神の御姿を見るときはじめて、私たちは彼に似た者となるのである。

Ⅰヨハネ3:1-3

1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。

2 愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。

3 彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。 

 神の御言葉に逆らっても「神のようになれる」「あなたがたはエロヒムだ」と説く「エデンの蛇の言葉」に誰も騙されてはならない。

Ⅰヨハネ3:7-10(新改訳)

7 子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。

8 罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

9 だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。

10 そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。

「永遠の命にあずかるように定められていた者」に関する検証

 使徒13:38-49

38 だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、 

39 信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。 

40 だから預言者たちの書にかいてある次のようなことが、あなたがたの身に起らないように気をつけなさい。 

41 『見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである』」。 

42 ふたりが会堂を出る時、人々は次の安息日にも、これと同じ話をしてくれるようにと、しきりに願った。 

43 そして集会が終ってからも、大ぜいのユダヤ人や信心深い改宗者たちが、パウロとバルナバとについてきたので、ふたりは、彼らが引きつづき神のめぐみにとどまっているようにと、説きすすめた。 

44 次の安息日には、ほとんど全市をあげて、神の言を聞きに集まってきた。 

45 するとユダヤ人たちは、その群衆を見てねたましく思い、パウロの語ることに口ぎたなく反対した。 

46 パウロとバルナバとは大胆に語った、「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。 

47 主はわたしたちに、こう命じておられる、『わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地の果までも救をもたらすためである』」。 

48 異邦人たちはこれを聞いてよろこび、主の御言をほめたたえてやまなかった。そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた。 

49 こうして、主の御言はこの地方全体にひろまって行った。 

  48節の「永遠の命にあずかるように定められていた者」(新改訳:「永遠のいのちに定められていた人たち」)という箇所は、よくカルヴァン主義の予定説、つまり「全知の神は、ご自身の絶対的な主権によって誰が魂の救いを受け、誰が滅びに至るかあらかじめ決めておられる」という説の根拠として引用される。

 今まで何世紀にも渡って議論されてきた内容なので、私がここで議論を蒸し返すまでもないだろう。そもそも時間や空間に制限されない永遠の神、全知全能の神が、その絶対的主権によって個人の救いや滅びを予定していたとしても、その同じ神が「全ての人が救われるのを望み」、その動機のゆえに「全ての人のために御子のいのちを犠牲にした」ならば、そして人間には誰が救われるか、救われないか、知ることができず、地上の生の最後の瞬間まで救いの可能性が与えられているとするならば、宣教命令を蔑ろにしてまで延々と議論をする意味が果たしてあるのか、私には甚だ疑問である。

 つまり自分の目の前にいる一人の人が、「救いのために定められているか、それとも滅びるために定められているか」、誰も知ることが許されていないと主張するならば、「神はその魂を救いたいと願っている」という前提的真理に意識を集中させるべきではないのだろうか。

ローマ5:18

このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。

Ⅱコリント5:14-15

14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。

15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

Ⅰテモテ2:4

神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。

Ⅰテモテ4:10

わたしたちは、このために労し苦しんでいる。それは、すべての人の救主、特に信じる者たちの救主なる生ける神に、望みを置いてきたからである。

テトス2:11

すべての人を救う神の恵みが現れた。

Ⅱペテロ3:9

ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。 

 この「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」という大前提に基づいて冒頭の箇所の読み返すと、より正確な解釈が見えてくると思う。

f:id:eastwindow18:20170517215255p:plain

 第一次伝道旅行においてパウロとバルナバは、ピシデヤのアンテオケに行き、安息日の会堂(シナゴーグ)において、そこにいた会衆(ユダヤ人や信心深い改宗者たち 16節、43節参照)に対して、「兄弟たちよ」と呼びかけ、「このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている。」と宣言した。その福音は、「信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。」というメッセージであった。

 使徒たちはアンテオケの会堂の何人から選んだ救いの福音を語らなかった。その場にいた聴衆の全員に対して呼びかけ、皆に罪の赦しの福音を宣べ伝えたのである。しかしその福音は「万人救済の福音」ではなく、「信じる者がすべて救われる」という「信仰による救いの福音」であった。

 これはパウロやバルナバだけでなく、聖霊に満たされた聖徒らが宣べ伝えていた「神の福音」である。

ヨハネ3:16

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 

 さらに、見逃してはならない点は、パウロとバルナバが信じる者全てに与えられる救いとを語った同じ聴衆に対して、同時にその神の福音を侮ることに対する警告を予めしていることである。

だから預言者たちの書にかいてある次のようなことが、あなたがたの身に起らないように気をつけなさい

『見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、あなたがたのとうてい信じないような事なのである』

 もし使徒らが予定論を前提に語っていたとすれば、この警告は意味がなかったはずである。もし滅びることがあらかじめ決定されているのなら、何をどう気をつければそれが起きないというのだろうか。

 また集会が終わった後にも使徒たちから話を聞こうと従っていた人々に対して、「引きつづき神のめぐみにとどまっているようにと、説きすすめた。 」とあるが、救われることが予定されているのならば、神の恵みに留まっているように勧告する意味はないだろう。

 しかし次の週の安息日に、使徒らは同じ会堂に集まったユダヤ人たちに対して、以下のような厳しい宣告をしているのである。

神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまった

 誰が誰をどのように「永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまった」のだろうか。それはユダヤ人たちが自分自身を、福音を退けることによって、である。ここでは明らかに、予定論にはよらず、福音を受け入れることを拒否したその選択が、全ての人に与えられていた可能性から自ら除外する根拠と見なされているのである。

 それゆえ、「永遠の命にあずかるように定められていた者」における「定められていたこと」とは、「神の福音を信じる者はみな、誰でも救われ、永遠の命を得る」と神の契約の条件であり、実際に異邦人がその条件に従って救われていたことを証ししているのだと思う。

異邦人たちはこれを聞いてよろこび、主の御言をほめたたえてやまなかった。そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた。