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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

初代教会における書簡の権威(2)

 (1)の記事において、西暦60年代前半の諸教会、特に現在のトルコがある地方において、使徒パウロと使徒ペテロの数々の書簡に関して、その信仰の従順の基準としての権威が認識されていたことを考察した。

 非常に興味深い点は、当時の諸教会において使徒ペテロは十二使徒の一人としてその権威が公に認められていたが、使徒パウロの場合、より複雑な状況に置かれていたことである。実際、パウロの使徒としての権威を疑う者も少なくなかったことが記録されている。しかもその疑いの声が、自ら宣教し建て上げたコリントの兄弟姉妹の間から上がっていた。本来、その働きの恩恵を誇りに思い、擁護してもおかしくなかった人々から、コリントの宣教に直接携わっていなかった他の使徒たちと比較され、酷評され、その召しと権威を疑われていたのだから、パウロの痛みは相当だったと思われる。

 それゆえパウロは、自ら書簡の中で弁護せざる負えなかった。

Ⅰコリント9:1-2

1 わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主にあるわたしの働きの実ではないか。 

2 わたしは、ほかの人に対しては使徒でないとしても、あなたがたには使徒である。あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職の印なのである。

Ⅱコリント11:5-6

5 事実、わたしは、あの大使徒たちにいささかも劣ってはいないと思う。 

6 たとい弁舌はつたなくても、知識はそうでない。わたしは、事ごとに、いろいろの場合に、あなたがたに対してそれを明らかにした。 

Ⅱコリント12:11-12

11 わたしは愚か者となった。あなたがたが、むりにわたしをそうしてしまったのだ。実際は、あなたがたから推薦されるべきであった。というのは、たといわたしは取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちにはなんら劣るところがないからである。 

12 わたしは、使徒たるの実を、しるしと奇跡と力あるわざとにより、忍耐をつくして、あなたがたの間であらわしてきた。 

 自分に最も近い同労者であったテモテへの手紙にさえ、自分が使徒として神に立てられたことを敢えて書かなければいけなかったのだから、パウロの権威に対する批判は恐ろしく辛辣だったと想像できる。

Ⅰテモテ2:7

そのために、わたしは立てられて宣教者、使徒となり(わたしは真実を言っている、偽ってはいない)、また異邦人に信仰と真理とを教える教師となったのである。

 しかしパウロの使徒としての権威を認めず、彼の人格と働きを卑しめていた人々さえ、ある意味、彼の書いた手紙に権威と力があることを認めていたことは意味深い。

Ⅱコリント10:8-11

8 たとい、あなたがたを倒すためではなく高めるために主からわたしたちに賜わった権威について、わたしがやや誇りすぎたとしても、恥にはなるまい。 

9 ただ、わたしは、手紙であなたがたをおどしているのだと、思われたくはない。 

10 人は言う、「彼の手紙は重味があって力強いが、会って見ると外見は弱々しく、話はつまらない」。 

11  そういう人は心得ているがよい。わたしたちは、離れていて書きおくる手紙の言葉どおりに、一緒にいる時でも同じようにふるまうのである。  

  実際、パウロの名前を勝手に利用し、彼が開拓伝道し建て上げた教会に対して偽の手紙を書き、教会に混乱をもたらそうとする者がいたことを、以下の聖句は暗示している。だからパウロは手紙の内容が自分のものであることを証明するために、他の部分では代筆者に記録させたのに対し、挨拶の言葉を自ら書き記した。

Ⅱテサロニケ2:22

霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。  

Ⅱテサロニケ3:17

ここでパウロ自身が、手ずからあいさつを書く。これは、わたしのどの手紙にも書く印である。わたしは、このように書く。

 実際、当時すでに「偽使徒」「偽教師」「偽預言者」と呼ばれる人々がいて、福音宣教の働きに少なからぬ害をもたらしていたのである。

Ⅱコリント11:13

こういう人々はにせ使徒、人をだます働き人であって、キリストの使徒に擬装しているにすぎないからである。 

テトス1:10-11

10 実は、法に服さない者、空論に走る者、人の心を惑わす者が多くおり、とくに、割礼のある者の中に多い。 

11 彼らの口を封ずべきである。彼らは恥ずべき利のために、教えてはならないことを教えて、数々の家庭を破壊してしまっている。 

Ⅰテモテ1:5-7

5 わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている。 

6 ある人々はこれらのものからそれて空論に走り、 

7 律法の教師たることを志していながら、自分の言っていることも主張していることも、わからないでいる。 

 また同じキリストを宣べ伝えながらも、その動機が使徒としてのパウロの権威に対しる妬みや闘争心、党派心によるもので、牢獄に入れられていた使徒パウロを苦しめていたことが記録されている。

ピリピ1:15-17

15 一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。 

16 後者は、わたしが福音を弁明するために立てられていることを知り、愛の心でキリストを伝え、 

17 前者は、わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしている。 

 使徒パウロや使徒ペテロが数々の書簡を諸教会に書き送った時代よりも後の時期に書かれたと言われている『黙示録』や『ヨハネの手紙第一、第二、第三』には、偽使徒や偽預言者のことを「ためす」、つまり検証し、真偽を確認する行為について言及がある。それはつまり、当時の諸教会において、霊的指導者や教師の適性について真偽を判断するだけの基準が、信徒たちのうちにしっかりと共有されていたことを暗示している。少なくとも使徒ヨハネは、小アジアの諸教会の信徒たちが、自分たちで真偽を判断することができると知っていたことを意味している。

黙示2:2 

2 わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。 

Ⅰヨハネ4:1

愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。 

 それは使徒パウロが勧告しているように、使徒たちの口頭による教えだけでなく、書簡によって伝えられた教えが、当時の諸教会に根付いてからではないかと思う。

Ⅱテサロニケ2:15

そこで、兄弟たちよ。堅く立って、わたしたちの言葉や手紙で教えられた言伝えを、しっかりと守り続けなさい。  

 

(3)へ続く

初代教会における書簡の権威(1)

(一部抜粋)

新約聖書を読む限りにおいて、論争を裁定したり、教理事項を決定する上で信者は聖書のみを参照するようには教示されていないと思います。(その理由の一つは、初代教会が存在していた時、27巻の新約聖書はまだ編纂されていなかったか、完成していなかったか、もしくはカノンとして認定されていなかったからです。)

 

新約聖書が描いているのはむしろ、按手を受けた可視的教会の指導者たちが、旧約聖書を持ち、使徒たちおよび長老たちのメッセージに対する証人としての召しを受けつつ、(イエスの御名と主の権威によって、つなぎそして解くべく)一同に会している図です(マタイ18:18-19;使徒15:6-29)。そしてそういった教会的権威が消滅し、最終的にソラ・スクリプトゥーラに取って代わられることになったということを指摘している箇所は聖書のどこにも見い出されません。

 前置きとして、私は「聖書のみ」というモットーは、宗教改革における「カトリック教会組織の権威に対する抗議」という文脈の中で強調されたものだと考えているので、敢えて声高に叫ぶようなことはしないし、このブログにおいても自分の主張として使ったことはない。

 というのも、霊的領域において権威が福音の啓示に準じている場合、それに従うべきであると書いてあるからである。

へブル13:17

あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない。 

Ⅰテモテ5:17

よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。 

Ⅰテサロニケ5:12-13

12 兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、 

13 彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。 

 勿論、上述の聖句からわかるように、その従順は「指導者」「長老」という肩書や地位自体に対してではなく、「神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている」「よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老」「あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々」という、実質的条件がついている権威に対してなのである。

 実際、地上における信仰者の共同体を指導する立場の人間には、それがどのような名前で呼ばれていようが、正確な基準による適性が要求されているからである。

 つまり使徒パウロから手紙を受け取ったエペソのテモテやクレテ島のテトスは、手紙の中に書かれていた適性の基準に従って、それぞれの地域教会の指導者の任命、つまり純粋な意味における権威を定めていたのである。

 実際、新約聖書の27巻がカノンとして制定されるはるか以前に、使徒パウロの書簡の「書かれた言葉」は、地域教会の信仰者に対して恭順を求める権威を持っていた。

Ⅱコリント2:9

わたしが書きおくったのも、あなたがたがすべての事について従順であるかどうかを、ためすためにほかならなかった。 

Ⅱテサロニケ3:14

もしこの手紙にしるしたわたしたちの言葉に聞き従わない人があれば、そのような人には注意をして、交際しないがよい。彼が自ら恥じるようになるためである。 

ピレモン21

わたしはあなたの従順を堅く信じて、この手紙を書く。あなたは、確かにわたしが言う以上のことをしてくれるだろう。

 冒頭の記事のスティールマン氏の表現を借りるなら、「新約聖書が描いているのはむしろ、按手を受けた可視的教会の指導者」であったテモテやテトス、また「コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たち」(Ⅱコリント1:1)や「テサロニケ人たちの教会」(Ⅱテサロニケ1:1)、コロサイの町で自分の家を礼拝のために開放していた信徒ピレモンが、使徒パウロの書簡を持ち、それを朗読しながら神の御心を行おうとしている図、である。

 そのパウロの書簡は、書簡の宛先の一つの地域教会に限定されず、同じ地方の他の地域教会においても朗読されるように勧められていた。つまり書簡に書かれた教えが共有されるよう取り計らわれていたのである。

コロサイ4:15-16

15 ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会とに、よろしく。 

16 この手紙があなたがたの所で朗読されたら、ラオデキヤの教会でも朗読されるように、取り計らってほしい。またラオデキヤからまわって来る手紙を、あなたがたも朗読してほしい。  

 また一通の手紙が、広域の地方にある複数の教会へ送られていた場合もある。

ガラテヤ1:1-2

1 人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ、 

2 ならびにわたしと共にいる兄弟たち一同から、ガラテヤの諸教会へ。 

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  またはテトスの場合のように、一通の手紙の教えをクレテ島(クレタ島。その面積は8,336 km²だから、北海道とほぼ同じ大きさである)の各町の教会へ適用するように勧められている場合もある。

テトス1:5

あなたをクレテにおいてきたのは、わたしがあなたに命じておいたように、そこにし残してあることを整理してもらい、また、町々に長老を立ててもらうためにほかならない。  

 使徒ペテロも自身が書き送った書簡の中で、使徒パウロの数々の書簡が広域にある複数の教会で読まれていたことを書き記している。

Ⅱペテロ3:15-16

15 また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。 

16 彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。  

 15節の「あなたがた」は、ペテロが第一の手紙を書き宛てた人々と同じ、現在のトルコ領の広域に散在していた信仰者たちであった。

Ⅰペテロ1:1-2

1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントガラテヤカパドキヤアジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち、 

2 すなわち、イエス・キリストに従い、かつ、その血のそそぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、御霊のきよめにあずかっている人たちへ。恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。 

Ⅱペテロ3:1-2

1 愛する者たちよ。わたしは今この第二の手紙をあなたがたに書きおくり、これらの手紙によって記憶を呼び起し、あなたがたの純真な心を奮い立たせようとした。 

2 それは、聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主の戒めとを、思い出させるためである。 

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  この「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤ」の領域にあった諸教会へ送られた使徒パウロの書簡は、以下の通りである。

  • 『ガラテヤびとへの手紙』
  • 『エペソびとへの手紙』
  • 『コロサイびとへの手紙』
  • 『テモテへの手紙第一、第二』(テモテは当時、小アジアのエペソにいた。)
  • 『ピレモンへの手紙』(コロサイの信徒)

 他にもラオデキヤへ送った手紙も暗示されているが、現存していない。新約聖書の中の使徒パウロが書いた13通の書簡のうちの6通である。勿論、牧会者だったテモテやピレモンなどに個人的に宛てた手紙が、諸教会宛てに書かれた手紙と同じように回覧されていたとは考えづらいが、新約聖書の正典化よりもはるかに早い時期、まだ使徒パウロも使徒ペテロも殉教していない時期(おそらく西暦60年代前半頃)に、現代のトルコがある広域において、二人の使徒が書いた数々の書簡が、信仰の権威ある基準として共有されていたことを示している。

 実際、使徒ペテロがこれだけの広域に散在していた諸教会宛てに、一通の手紙で書き送ったということは、当時すでに、諸教会間において何らかの回覧システムが確立されていたことを示している。羊皮紙に比べると相対的に廉価であったパピルスに書き写し、配布されていた可能性もある。しかも使徒パウロがコロサイ教会へ勧めた回覧の言及がないことから、手紙を回覧したり、配布したりすることに関して、暗黙の了解があったことを示している。

 また使徒パウロが第二次伝道旅行でコリントに一年半滞在していた時期(西暦50-51年頃)に書かれたと言われている『テサロニケびとへの手紙第二』では、使徒の権威を悪用した偽の手紙に関する言及があることから、当時すでに、使徒たちによって書かれた手紙が読まれ(西暦50年代初めの頃はまだ、その数は少なかったと思われるが)、その権威が諸教会の間で認められていたことを暗示している。

Ⅱテサロニケ2:1-2

1 さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの来臨と、わたしたちがみもとに集められることとについて、あなたがたにお願いすることがある。 

2 霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。 

 

(2)へ続く

主イエス・キリストを知る知識

Ⅱペテロ1:1-15

1 イエス・キリストの僕また使徒であるシメオン・ペテロから、わたしたちの神と救主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。 

2 神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。 

3 いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。 

4 また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。 

5 それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、 

6 知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、 

7 信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。

8 これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。 

9 これらのものを備えていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者である。 

10 兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。 

11 こうして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるからである。 

12 それだから、あなたがたは既にこれらのことを知っており、また、いま持っている真理に堅く立ってはいるが、わたしは、これらのことをいつも、あなたがたに思い起させたいのである。 

13 わたしがこの幕屋にいる間、あなたがたに思い起させて、奮い立たせることが適当と思う。 

14 それは、わたしたちの主イエス・キリストもわたしに示して下さったように、わたしのこの幕屋を脱ぎ去る時が間近であることを知っているからである。 

15 わたしが世を去った後にも、これらのことを、あなたがたにいつも思い出させるように努めよう。 

 このペテロの手紙の冒頭部分には、聖書的な意味での知識に関する明確な教えが織り込まれている。その知識の本質やもたらす結果、またその知識を受ける側の役割などである。

  1. 知識とは神と主イエスを知ることである(2-3節):それは「神と主イエスに関する教義的知識の蓄積」以上に、「神と主イエスとの個人的な交わりに基づく知識」である。2節と3節そして8節において「知識」と和訳されている原語は【ἐπίγνωσις epignōsis】で、「承認、認定、認知、知識」という意味で、HELPS Word-studiesによると、「関係における知識、経験的知識」ある(Ⅰヨハネ1:1-3参照)。そして5節における「知識」は【γνῶσις gnōsis】で、行為としての「知ること」が直義である。
  2. 知識が神の様々な賜物をもたらす:恵みと平安(2節);いのちと信心とにかかわるすべてのこと(3節)
  3. 知識は成長のプロセスの一段階である:「徳には知識を、 知識には自制を」(5-6節 新改訳)「自制」「節制」ということは、「与えられた知識」が信仰者の自我に積極的に働きかけ、「ブレーキをかけたり、アクセルを踏んだり、ハンドルを切ったり」するということである。自制は御霊の実でもあるからである(ガラテヤ5:22-23参照)。また「あなたがたは、力の限りをつくして...加えなさい」とあるから、信仰者はその聖霊による知識の働きに対して能動的である。
  4. 主イエス・キリストを知る知識は私達に働きかけ、実を結ぶ(8節):信じる者の意志に働きかけ、御心を行うことの熱意を与え、また神が喜ぶ実をもたらす。
  5. 信仰者はそれを知り、真理として持っているが、常に思い起こす必要がある(10、12、15節):知識を持っていること自体に安泰するのではなく、自分が何を受けたかを常に再確認する必要がある。

 この知識に基づく成長の必要性は、この手紙の締めくくりの言葉と、反対にそのような自覚のない場合の恐ろしい結果を示す言葉によって、さらに強調されている。

Ⅱペテロ3:18

そして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい。栄光が、今も、また永遠の日に至るまでも、主にあるように、アァメン。 

 ちなみにこちらの「知識」は【γνῶσις gnōsis】である。1章における「プロセスの一つとしての知ること」と「…知ることにおいて、ますます豊かになりなさい」という勧告は繋がっている。

Ⅱペテロ2:20-21

20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。

21 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。 

 この聖句において「知ること」と和訳されているのは【ἐπίγνωσις epignōsis】で、「この世の汚れからのがれた後」という後に続く節に表れているように、文脈的にも単なる教義的知識というよりは、経験的知識という意味だろう。

 私達のうちで知識自体が目的化されてしまうと、知識の方向性を見失い、「怠る者」「実を結ばない者」「盲人であり、近視の者」「自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者」だけでなく、「救われる前の状態よりも悪くなる」、つまり御子イエスの尊き犠牲によって与えられた「恵みと平安」「いのちと信心とにかかわるすべてのこと」を踏みにじることに繋がってしまいかねないのである。

聖書の啓示に基づいた御子イエスとの出会い:ピリポ

ヨハネ1:43-45(口語訳)

43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、「わたしに従ってきなさい」。 

44 ピリポは、アンデレとペテロとの町ベツサイダの人であった。 

45 このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」。  

 ガリラヤ湖北部沿岸の小さな漁村であったベツサイダの出身のピリポは、十二使徒の一人として御子イエス・キリストによって召命を受けた人物であり、使徒行伝6章に登場するピリポとは別人である。

 ここで御子はそのピリポに出会い、「私に従ってきなさい」と非常にシンプルに力強く語りかけ、ピリポは迷わず従ったようである。同じ村出身の兄弟アンデレとペテロがすでに御子に従っていたことも、ピリポの選択を助けただろうと思われる。

 そして今度はピリポがナタナエルに出会い、御子のことを証しした。聖句からはピリポとナタナエルが以前から知り合いであったかどうかは判断しかねないが、共観福音書においてピリポとバルトロマイが組で書かれたり、続けて書き記されていることから、12使徒の一人バルトロマイがナタナエルではないかという説もある。しかし使徒行伝ではピリポとバルトロマイは組で書かれていないので、あくまで推測の一つとして捉えるべきだろう。

マタイ10:3

ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、 

マルコ3:18

つぎにアンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、 

ルカ6:14

すなわち、ペテロという名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、 

使徒1:13

彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。 

 興味深いのは、ピリポがナタナエルに語った、イエス・キリストに関する説明の言葉である。

「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」

 ピリポをはじめ、全てのイスラエル人が子供の時から会堂において読み聞かされていた律法の書や預言者の書の中に記されていた「イスラエルの王」つまり救い主メシアが、「ヨセフの子、ナザレのイエス」として実際に肉体をもった顕れた、という証である。つまりピリポは旧約聖書の数々の預言が、目の前にいる一人の男イエスにおいて成就した、と確信し、それを証ししたのであった。

 そして「わたしたちは」と第一人称複数で語っているということは、先に弟子として従い始めていたアンデレやペテロ、ヨハネなども、同じ証しを共有していたことを暗示している。

 そしてピリポがこの告白をしたのが、御子イエスに実際に会い、従い始めた後のことだったのも興味深い。その証はピリポの頭の中で構想した哲学的概念ではなく、まさしく書き記された聖書と、イエスという肉体をもった一人の人間とに基づいた証しだったのである。

 それはまた福音書記者ヨハネの証しにも共通するものである。

ヨハネ1:14

そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。

わたしたちはその栄光を見た。

それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。 

 口語訳では「ナザレのイエスにいま出会った」と、原語には無い「いま」という言葉を挿入しているが、翻訳者はある意味、ピリポの証しのいきいきとしたニュアンスを表現しようとしたのかもしれない。

 この「聖書の啓示に基づいた御子イエスとの出会いと交わりの証し」というのは、御子自身も「永遠の命、つまり救いを得るために重要なプロセス」として語っているものである。

ヨハネ5:39-40

39 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 

40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。 

  聖書の預言は「御子イエス・キリストについて」証ししているが、それを知識として調べ、知るだけではなく、それを基に「御子イエス・キリスト自身」を祈り求めること。

 これこそ、永遠のいのちを得る道である。

何の権威、誰の名によって

使徒4:5-12

5 明くる日、役人、長老、律法学者たちが、エルサレムに召集された。

6 大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな集まった。

7 そして、そのまん中に使徒たちを立たせて尋問した、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」。

8 その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たちよ、

9 わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら、

10 あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。

11 このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。

12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

 大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族が、役人、長老、律法学者たちをエルサレムに召集した。つまり当時のユダヤ人社会において社会的・宗教的権威をもつ人々のグループが、使徒たちを尋問したことになる。

「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」。

 しかしこのような権威に関する尋問を受けたのは、使徒たちが初めてではなかった。彼らの教師であり、主である御子イエスも、当時の祭司長たちや民の長老たちから同様の尋問を受けていたからである。

マタイ21:23-27

23 イエスが宮にはいられたとき、祭司長たちや民の長老たちが、その教えておられる所にきて言った、「何の権威によって、これらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。

24 そこでイエスは彼らに言われた、「わたしも一つだけ尋ねよう。あなたがたがそれに答えてくれたなら、わたしも、何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。

25 ヨハネのバプテスマはどこからきたのであったか。天からであったか、人からであったか」。すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。

26 しかし、もし人からだと言えば、群衆が恐ろしい。人々がみなヨハネを預言者と思っているのだから」。

27 そこで彼らは、「わたしたちにはわかりません」と答えた。すると、イエスが言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい。

 『ルカによる福音書』は、祭司長たちや民の長老たちが御子イエスの権威を問いただしたときは、御子が宮の中で「人々に教え、福音を宣べておられる」ときだったことを特筆している。

ルカ20:1

ある日、イエスが宮で人々に教え、福音を宣べておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと共に近寄ってきて、

 実は引き合いに出されたバプテスマのヨハネも、言葉は違うものの、権威に関する「尋問攻め」を受けていた。

ヨハネ1:19-28(岩波翻訳委員会訳)

19 ヨハネの証しは次の通りである。

ユダヤ人たちがエルサレムから祭司とレビ人を[彼のもとに]遣わして、「お前は誰だ」とたずねさせた時、

20 彼は公言して否まず、「私はキリストではない」と公言した。

21 そこで、「どういうことだ。お前はエリヤか」とたずねると、彼は言う、「私は違う」。「お前はあの塑言者か」。すると、「いや」と答えた。

22 そこで彼に言った、「お前は誰だ。われわれを派遣した人たちに答えを持って行かせてくれ。お前は、お前自身について何と言うのか」。

23 彼は言った、「私は預言者イザヤが言ったように、『お前たち、主の道をまっすぐにせよ』と、荒野で呼ばわる者の声である」。

24 彼らはファリサイ派の人々から遣わされていた。

25 彼にたずねて、彼らは彼に言った、「それでは、お前がキリストでもエリヤでもあの預言者でもないのなら、なぜ洗礼を授けているのか」。

26 ヨハネは〔次のように〕言って彼らに答えた、「私は水で洗礼を授けているが、あなたがたの間にあなたがたのわからない方が立っておられる。

27 〔その人は〕私の後から来る方で、[この]私はその者の片方の皮ぞうりの紐を解く資格すらもない」。

28 これらのことはヨルダン〔河〕の向う、ベタニアで起こった。ヨハネはそこで洗礼を授けていたのである。

 口語訳ではなく、岩波委員会訳を選んだのは、祭司やレビびと(律法学者も含まれていたと思われる)の宗教的立場と、どこにも所属していなかった洗礼者ヨハネの立場を考慮すると、祭司たちのより強い口調による表現が適切だと思うからである。

  • 「お前は誰だ」
  • 「お前はエリヤか」
  • 「お前はあの預言者か」
  • 「お前は誰だ。われわれを派遣した人たちに答えを持って行かせてくれ」
  • 「お前は、お前自身について何と言うのか」
  • 「それでは、お前がキリストでもエリヤでもあの預言者でもないのなら、なぜ洗礼を授けているのか」

 要するに祭司たちは、洗礼者ヨハネに対して「一体何様のつもりだ。何の権限があって、洗礼を授けているんだ」と責めていたのである。

 

 注目すべきは、主イエス・キリストも洗礼者ヨハネも使徒たちも、当時のユダヤ教や社会に対して内部から改革を起こそう、という反権威的態度で行動していたのではなかった点である。彼らは皆、人間の霊魂に対して、福音を語り、預言を解き明かし、救い主の御名について証しし、聖霊の力によって癒しを行っていただけであった。それを「権威の問題」として扱っていたのが、祭司や律法学者、長老など、権威側についていた人間だったのは興味深いことである。

 使徒パウロは、自分が伝道し建てあげたコリントの地域教会の一部の人々から、エルサレムの十二使徒と比較され、批判され、蔑視されるという扱いを受けていた。そのような事態に対して、パウロは様々な観点から自分の働きを弁護しようと試みている(Ⅱコリント10章ー13章参照)。生粋のユダヤ人としてのプロフィール、異邦人宣教者としての働き、さらにその働きの中で経験した無数の困難。そのようなものを書き記しつつも、最終的に自分の弱さを誇り、その弱さのうちに絶大な力で働くキリストの名を誇るように聖霊に導かれているのは、読んでいて感動的ですらある。

Ⅱコリント12:5-10(新改訳)

5 このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。

6 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。

7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。

8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。

9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 人間同士のパワーゲーム、地位、権力、優劣。これらのものに囚われる心を捨て、与えられた聖霊を通して、私たちの心が「キリストの平和」に支配され、「キリストの言葉」で豊かに満たされ、すべての言動を「キリストの名」によって為すことができますように。

コロサイ3:15-17

15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。

16 キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。

17 そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。

イザヤ書の預言からイエス・キリストを宣べ伝えたピリポ

使徒8:26-40

26 しかし、主の使がピリポにむかって言った、「立って南方に行き、エルサレムからガザへ下る道に出なさい」(このガザは、今は荒れはてている)。

27 そこで、彼は立って出かけた。すると、ちょうど、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財宝全部を管理していた宦官であるエチオピヤ人が、礼拝のためエルサレムに上り、

28 その帰途についていたところであった。彼は自分の馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。

29 御霊がピリポに「進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい」と言った。

30 そこでピリポが駆けて行くと、預言者イザヤの書を読んでいるその人の声が聞えたので、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と尋ねた。

31 彼は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えた。そして、馬車に乗って一緒にすわるようにと、ピリポにすすめた。

32 彼が読んでいた聖書の箇所は、これであった、/「彼は、ほふり場に引かれて行く羊のように、/また、黙々として、/毛を刈る者の前に立つ小羊のように、/口を開かない。

33 彼は、いやしめられて、/そのさばきも行われなかった。だれが、彼の子孫のことを語ることができようか、/彼の命が地上から取り去られているからには」。

34 宦官はピリポにむかって言った、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」。

35 そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。

36 道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」。

37 〔これに対して、ピリポは、「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません」と言った。すると、彼は「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。〕

38 そこで車をとめさせ、ピリポと宦官と、ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。

39 ふたりが水から上がると、主の霊がピリポをさらって行ったので、宦官はもう彼を見ることができなかった。宦官はよろこびながら旅をつづけた。

40 その後、ピリポはアゾトに姿をあらわして、町々をめぐり歩き、いたるところで福音を宣べ伝えて、ついにカイザリヤに着いた。

「彼は自分の馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。」

「預言者イザヤの書を読んでいるその人の声が聞えた」

「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」

「彼が読んでいた聖書の箇所は、これであった」

 エチオピアの宦官が帰途の馬車の上で声を出して読んでいたのは、預言者イザヤの書で、おそらくギリシャ語で書かれた羊皮の巻物だったのではないかと思われる。その巻物を拡げながら、この宦官は自分が実際に読んでいる箇所、つまり有名な『苦難の僕』の預言の意味を理解できないでいた。

 イザヤ53:7-8(口語訳)

7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。

8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。

 宦官は確かに巻物を手にし、個人的にイザヤ書を読み、文法的な意味を理解していたが、「苦難の僕」が誰のことを啓示しているのか、全く知らなかった。彼のとまどいが、彼の言葉からもよく伝わってくる。 

31a 彼は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えた。

34 宦官はピリポにむかって言った、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」。 

 ピリポの反応も宦官の質問と同じくストレートである。

35 そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。 

 ギリシャ語においてはイエスの前に冠詞がついている。「イエスについて」「イエスのことを」というニュアンスよりもダイレクトな、「イエスその方を宣べ伝えた」という感じだろうか。

 ピリポの言葉を聞いているうちに、宦官の心には信仰が与えられ、彼は自らバプテスマを求めるほどになっていた。

36 道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」。

 この宦官のストレートな態度は大変興味深い。間違いなく、宦官は自分の横で聖書を解き明かしていたピリポと面識が全くなかった。一国の高官であった人物が、いきなり目の前に現れた、どこの誰かもわからない男の聖書解釈(35節 この聖句から説き起して)を聞き、信仰をもつに至ったのである。

 もし宦官が権威主義的な傾向をもっていたら、ピリポにこう答えていただろう:「とても熱心に詳しい説明してくれて感謝しますが、私はあなたが誰だか、どんな権威によってこのイザヤ書を解釈したのか、確かではありません。あなたは十二使徒の一人ですか。違う?エルサレム教会の執事のひとり?あぁ、そうですか。それならこうしましょう。私は次の祭りのときにまたエルサレムに上る予定ですので、そのときに十二使徒の権威の下にイザヤ書の解釈を直接聞くことにします。それでは、ここで馬車から降りて下さい」と。

 しかし「御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人」(使徒6:3 参照)の一人として選ばれ、食事の配給の奉仕を任されていたピリポは、その「立場」とは関係なく、御霊の働きかけに敏感に従い、委ねていたことが明らかに記されている。

26 しかし、主の使がピリポにむかって言った、「立って南方に行き、エルサレムからガザへ下る道に出なさい」。

29 御霊がピリポに「進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい」と言った。

39 ふたりが水から上がると、主の霊がピリポをさらって行ったので、宦官はもう彼を見ることができなかった。宦官はよろこびながら旅をつづけた。

 つまりピリポは、神である御霊の権威の下に行動し、そして同じ御霊の導きによって御子イエスのことを証ししていたということである。それは御子が弟子たちに約束していたことの成就である。

ヨハネ15:26

わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。

使徒5:29-32 

29 これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。

30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、

31 そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。

32 わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。

「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」

ルカ10:25-28

25 するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。

26 彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。

27 彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。

28 彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。

 御子イエスの律法学者に対する「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」という問いかけは、御子自身が律法に関して持っていた考えを明らかにしている。

① 律法の中に永遠の命が啓示されている:(しかしそれは律法、そして旧約聖書すべてがご自身を証ししている、という意味においてだったが...)

ヨハネ5:39

あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。

 

② その書き記された律法は、一人の人間が読み、その書かれていることを基本的に理解できるものである:もし御子イエスが、律法学者は書かれた文章を読むことができず、また読んでもその内容を理解できないと考えていたら、上述のような問いかけはせず、「永遠の命を得るためには、律法のあの部分に書いてあるとおりである」と教えていただろう。しかし御子は実際、この律法学者が書かれた聖書を読み、その文章が伝えようとしていたメッセージを理解できるという前提のもとに問いかけた。

 

③ 律法の解釈に個人的自由が与えられている:「こう読め」という強制的インプットでも洗脳でもない。正しく解釈するかしないかの個人的選択が前提としてある。しかしその自由は、すべてが相対的でどう解釈しても同じ価値をもつ、という意味ではないことは、以下の聖句においても戒告されている。

Ⅱペテロ1:20-21

20 聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。

21 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。

 

④ 御子は正しいことを教えてくださる:「あなたの答は正しい。」 御子イエスは、不可知論者のように「自分の不確かさ」を絶対化することはない。神の言葉の中に啓示されている絶対的善を人間に対して示すことを躊躇しない。実際、御子イエスの御心は、人々が神の国と神の義を知るようになることである。上述の律法学者が質問する直前に、御子が喜びの賛美をしているが、その言葉が証明している。

ルカ10:21-24

21 そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。

22 すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません」。

23 それから弟子たちの方に振りむいて、ひそかに言われた、「あなたがたが見ていることを見る目は、さいわいである。

24 あなたがたに言っておく。多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」。

 

⑤ もし律法学者が間違った回答をしていたら、その間違いを指摘していただろう: 主が「あなたの答は正しい。」と答えたということは、もし間違っていたら「間違っている」と修正しただろうことを暗示している。実際、律法の間違った解釈をしていたサドカイ派の人々の質問に対して、はっきりとその誤りを指摘している。

マルコ12:18-27

18 復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのもとにきて質問した、

19 「先生、モーセは、わたしたちのためにこう書いています、『もし、ある人の兄が死んで、その残された妻に、子がない場合には、弟はこの女をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。

20 ここに、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子がなくて死に、

21 次男がその女をめとって、また子をもうけずに死に、三男も同様でした。

22 こうして、七人ともみな子孫を残しませんでした。最後にその女も死にました。

23 復活のとき、彼らが皆よみがえった場合、この女はだれの妻なのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが」。

24 イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。

25 彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。

26 死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。

27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」。

 生きている者の神は今現在も、聖霊を通して、

「聖書には何と書いてあるか」

「神が仰せられた言葉を読んだことはないのか」

「あなたはどう読むか」

「あなたの答えは正しい。そのとおり行いなさい」

「あなたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか」

「あなたは非常な思い違いをしている」

などと、私たちを絶えず訓戒し、教え、導いてくださる方である。

Ⅱテモテ3:13-17

13 悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。

14 しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、

15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。

16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。