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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

詩篇73篇

詩篇73

1 アサフの歌

神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。

2 しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。

3 これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。

4 彼らには苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、

5 ほかの人々のように悩むことがなく、ほかの人々のように打たれることはない。

6 それゆえ高慢は彼らの首飾となり、暴力は衣のように彼らをおおっている。

7 彼らは肥え太って、その目はとびいで、その心は愚かな思いに満ちあふれている。

8 彼らはあざけり、悪意をもって語り、高ぶって、しえたげを語る。

9 彼らはその口を天にさからって置き、その舌は地をあるきまわる。

10 それゆえ民は心を変えて彼らをほめたたえ、彼らのうちにあやまちを認めない。

11 彼らは言う、「神はどうして知り得ようか、いと高き者に知識があろうか」と。

12 見よ、これらは悪しき者であるのに、常に安らかで、その富が増し加わる。

13 まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。

14 わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲しめをうけた。

15 もしわたしが「このような事を語ろう」と言ったなら、わたしはあなたの子らの代を誤らせたであろう。

16 しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた。

17 わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。

18 まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。

19 なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう。

20 あなたが目をさまして彼らの影をかろしめられるとき、彼らは夢みた人の目をさました時のようである。

21 わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、

22 わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。

23 けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。

24 あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。

25 わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。

26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。

27 見よ、あなたに遠い者は滅びる。あなたは、あなたにそむく者を滅ぼされる。

28 しかし神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。

  何とリアルな詩篇だろう。まるでこの詩篇の記者と言われているアサフという人物の息遣いさえ聞こえてくるようである。

 このアサフは神殿で仕えるために選び分けられていたレビ族の中から、ダビデ王によって日々神の幕屋の中で賛美を捧げる務めのために直々に選ばれ、その長の一人となった人物であった。そして具体的にはよくわからないものの、その務めを通して預言的働きを指揮する立場でもあったようである。

歴代誌上15:19

歌うたう者ヘマン、アサフおよびエタンは青銅のシンバルを打ちはやす者であった。

歴代誌上16:4-7;37

4 ダビデはまたレビびとのうちから主の箱の前に仕える者を立てて、イスラエルの神、主をあがめ、感謝し、ほめたたえさせた。

5 楽長はアサフ、その次はゼカリヤ、エイエル、セミラモテ、エヒエル、マッタテヤ、エリアブ、ベナヤ、オベデ・エドム、エイエルで、彼らは立琴と琴を弾じ、アサフはシンバルを打ち鳴らし、

6 祭司ベナヤとヤハジエルは神の契約の箱の前でつねにラッパを吹いた。

7 その日ダビデは初めてアサフと彼の兄弟たちを立てて、主に感謝をささげさせた。 

37 ダビデはアサフとその兄弟たちを主の契約の箱の前にとめおいて、常に箱の前に仕え、日々のわざを行わせた。 

歴代誌上25:1-2

1 ダビデと軍の長たちはまたアサフ、ヘマンおよびエドトンの子らを勤めのために分かち、琴と、立琴と、シンバルをもって預言する者にした。その勤めをなした人々の数は次のとおりである。

2 アサフの子たちはザックル、ヨセフ、ネタニヤ、アサレラであって、アサフの指揮のもとに王の命によって預言した者である。 

 要するにアサフは社会的にも重要な任務をもち、信頼されるような人物であったということである。むしろそのような社会的立場にいたからこそ、神を畏れない傲慢な権力者たちの現実を間近で見ざる負えない環境にいたのかもしれない。

 実際、アサフがひどく苦しんでいた妬みは、その対象との距離があるとき実感を持ちにくいが、その距離(物質的は勿論、精神的にも)が短ければ短いほど、妬みはまるで火に油を注ぐように激しく燃え、人の平安を焼き焦がす。

 アサフがこの精神的束縛を断ち切ることができたのが、「神の聖所に行って」神の御前に身を置いたときであったのはとても意味深い。新約聖書の啓示に適用して表現するなら、アサフは「肉に属する領域」から「霊に属する領域」に導き入れられた時に、その恐ろしい束縛から解放されたのであった。

 アサフが行ったように、自分の心を清めようと努力し、厳密に自己反省を繰り返し、決心し、試行錯誤したとしても、私たちが「肉の領域」に留まるかぎり、その努力は私たちが望むような解放をもたらすことは決してない。

まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。

わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲しめをうけた。

もしわたしが「このような事を語ろう」と言ったなら、わたしはあなたの子らの代を誤らせたであろう。

しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた。

 しかし御子イエス・キリストの十字架の死に対する信仰によって、「神の至聖所」に入る時、 私たちはまさにアサフのように告白することができる。

23 けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。

25 わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。

26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。

28 しかし神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。

 私たちの努力によってではなく、主なる神の力によって引き寄せられ、保たれるがゆえ、私たちは「神の近くにいること」つまり「御子と一つになること」が許され、そこでは主だけが命となり、力となり、私たちの全てとなるのである。

腐ったリンゴ

 

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 たまたま店で買ったリンゴの中に傷んだものや不味いものが混ざっていたからといって、「この世のリンゴは全て腐っていたり、不味くて、まともなものは一つもない」と考えたり、「もう絶対にリンゴを口にしないぞ」と決心したりするだろうか。

 おそらく二度と同じ店では買おうとはしないだろう。違う店に行っても、また同じように不快な経験をするかもしれない。それでも「この世には美味しいリンゴは存在しない」とは誰も考えない。

 むしろ腐っているリンゴは、腐っていない、熟れた美味しいリンゴが存在することを示している。

 確かに甘い実を結ぶリンゴの樹は存在し、探すなら必ずその実を見つけ、思う存分、味わうことができるのである。

マタイ7:15-20

15 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。

16 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。

17 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。

18 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。

19 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。

20 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。

イザヤ53章:「預言者はだれについて、こう言っているのですか。」

使徒8:26-35

26 しかし、主の使がピリポにむかって言った、「立って南方に行き、エルサレムからガザへ下る道に出なさい」(このガザは、今は荒れはてている)。

27 そこで、彼は立って出かけた。すると、ちょうど、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財宝全部を管理していた宦官であるエチオピヤ人が、礼拝のためエルサレムに上り、

28 その帰途についていたところであった。彼は自分の馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。

29 御霊がピリポに「進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい」と言った。

30 そこでピリポが駆けて行くと、預言者イザヤの書を読んでいるその人の声が聞えたので、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と尋ねた。

31 彼は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えた。そして、馬車に乗って一緒にすわるようにと、ピリポにすすめた。

32 彼が読んでいた聖書の箇所は、これであった、「彼は、ほふり場に引かれて行く羊のように、また、黙々として、毛を刈る者の前に立つ小羊のように、口を開かない。

33 彼は、いやしめられて、そのさばきも行われなかった。だれが、彼の子孫のことを語ることができようか、彼の命が地上から取り去られているからには」。

34 宦官はピリポにむかって言った、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」。

35 そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。 

  現代的に言い換えれば、おそらく「財務大臣」レベルの人物だと思われる高官が、帰国の途において馬車の上で読んでいたのは、イザヤ書53章の7節と8節であった。旧約聖書の聖句と微妙に異なるのは、ギリシャ語訳の七十人訳から引用されているからである。

イザヤ53:7-8

7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。

8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。 

 そしてこの宦官は、どこからともなく突然現れ、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と捉えようによっては無礼にも聞こえる質問をした見ず知らずの男に対して、非常にダイレクトで核心的な問いを投げかけた。

「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」

 民のとがのために打たれ、生けるものの地から断たれたという「彼」とは、いったい誰のことを言っているのだ、という素朴な質問である。

 そのダイレクトな質問に対するピリポの答えも、同じようにぶれも迷いもないものであった。

彼にイエス〔の福音〕を告げ知らせた。(岩波翻訳委員会訳)

 原語にはイエスの名の前に定冠詞がついているので、非常に強いニュアンスである。ピリポは頭に浮かんだ適当なイメージで語ったのではなく、聖霊が啓示し、教会の兄弟姉妹の間で信じられ、宣べ伝えられていた「イエス」と「全く同じイエス」をそのままエチオピアの高官に告げ知らせたのである。

 預言者イザヤが紀元前8世紀頃に書き記したと言われる預言に対する本質的な問い「ここで預言者はだれのことを言っているのですか」は、決してこのエチオピア人だけのものではなく、現在に至るまで多くの人々によって問われてきたものである。イエスが救い主であると信じる信仰者にとっては、イザヤ53章はまさしく「マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネに続く『第五の福音書』」と呼べるほど明確にイエスの苦難について啓示しているのだが、そのイエスがメシアであることを受け入れていない人々、特にユダヤ教の人々にとっては、その明白さゆえに「都合の悪い」箇所なのである。

 だから「この箇所は、イスラエルの民全体の苦難について語っている」という解釈を固持するわけであるが、「彼はわが民のとがのために打たれて」と明確に書かれている以上、「彼=イスラエルの民」とは解釈することはできない。

 以下のサイトの映像では、『イザヤ53章:イスラエルの民についてか、それともイスラエルのメシアについてか』というタイトルで、過去のユダヤ人教師(ラビ)が書き残した解釈を数多く引用し、預言者イザヤが来るべきメシアについて語っていたことを論証している。 

 また以下の映像は、御子イエスがメシアであることを信じたユダヤ人の一人であるMottel Balestone氏の証しである。3分14秒あたりからイザヤ53章について語っている。「もし聖書の他の箇所なしで53章を読むなら、あなたは『これはクリスチャンの聖書(ユダヤ人は新約聖書をそう呼ぶ。訳者注)だ。これはイエスだ』と言うだろう」と語っている。

 読者の方々も、実際に53章を読んでいただきたい。文脈上、52章の終わりのところも合わせて引用する。

イザヤ52:13-15

13 見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。

14 多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである――

15 彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。 

53:1-12

1 だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。

2 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。

3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。

8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。

9 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。

10 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。

11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。

12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。 

 ちなみにこの箇所に関して、新約聖書では以下の聖句で引用されている。(LXXはギリシャ語旧約聖書七十人訳のことである。)

  • 52:15(LXX)⇒ ローマ15:21
  • 53:1(LXX)⇒ ヨハネ12:38; ローマ10:16
  • 53:4 ⇒ マタイ8:17
  • 53:7,8(LXX) ⇒ 使徒8:32,33
  • 53:9 ⇒ Ⅰペテロ2:22
  • 53:12 ⇒ ルカ22:37

 

関連記事:

詩篇34篇 苦しむ者の証し

詩篇34

1 ダビデがアビメレクの前で狂ったさまをよそおい、追われて出ていったときの歌

わたしは常に主をほめまつる。そのさんびはわたしの口に絶えない。

2 わが魂は主によって誇る。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう。

3 わたしと共に主をあがめよ、われらは共にみ名をほめたたえよう。

4 わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。

5 主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない。

6 この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。

7 主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる。

8 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。

9 主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。

10 若きししは乏しくなって飢えることがある。しかし主を求める者は良き物に欠けることはない。

11 子らよ、来てわたしに聞け、わたしは主を恐るべきことをあなたがたに教えよう。

12 さいわいを見ようとして、いのちを慕い、ながらえることを好む人はだれか。

13 あなたの舌をおさえて悪を言わせず、あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな。

14 悪を離れて善をおこない、やわらぎを求めて、これを努めよ。

15 主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。

16 主のみ顔は悪を行う者にむかい、その記憶を地から断ち滅ぼされる。

17 正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。

18 主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。

19 正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。

20 主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。

21 悪は悪しき者を殺す。正しい者を憎む者は罪に定められる。

22 主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない。 

 この詩篇は、ダビデがイスラエルの初代王サウルの迫害から逃亡している時に書かれた七つの詩篇のうちの一篇だと言われている。

 4節「わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。」と6節「この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。」は、意味の上で並行体を成している。つまり「私」であるダビデは、自分を「苦しむ者」と呼び、「主に求め」(新改訳の「主を求め」の方がより原意に近い)、「呼ばわった」時、主はその声を「聞いて」、「答え」、「すべての恐れからわたしを助け出され」「すべての悩みから救い出された」というのである。

 そしてダビデはこの自分の証しが、他の苦しみの中にいる人の喜びとなることを確信している。

わが魂は主によって誇る。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう。

 だからこそダビデは自分が四方八方からの苦難の中にいながらも、主を畏れることの教訓を残そうとしたのだろう。

子らよ、来てわたしに聞け、わたしは主を恐るべきことをあなたがたに教えよう。

 ちなみにこの詩篇は、ヘブライ語原文において各節の頭文字が意図的にアルファベット順に並んでいて、暗唱しやすいように構成されているのも、詩的作意以上にこの「自分のように苦しんでいる者に対する励ましの共有」の思いが根底にあると思う。

 そしてダビデは主観的な証しだけでなく、一つの普遍的な真理として、苦難の中にいる信仰者に対する主の憐みを啓示している。

17 正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。

18 主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。

  苦難や迫害の中で苦しむ一人の信仰者が、その試練の中にあって主なる神を求め、その交わりの中で受ける慰めと霊的解放(それは必ずしも物質的解放を意味していない。)を証しすることによって、困難の中にいる人が慰めに満ちたる神を求める思いをもつようになる。

 この霊性は、新約聖書においても各所に啓示されている真理である。

Ⅱコリント1:3-7

3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。

4 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。

5 それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。

6 わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。

7 だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからである。

「私の味方でない者」「私と共に集めない者」「聖霊に対して言い逆らう者」

マタイ12:30-32

30 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。

31 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。

32 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。 

 注目すべき点は、御子自身が「私の味方でない者」「私と共に集めない者」と定義していることである。つまり御子が「ご自分の味方か否か」「ご自身と共に集める者か否か」を決めるのであって、人間が自分のことを「御子の味方である」とか「御子と共に集める者」と自認している、というのとは根本的に違うことである。

 信仰者は自己欺瞞の誘惑に絶えず晒されている。以下の聖句は、「主よ、主よ」と口で唱えながらもその主に敵対しうること、また御子から離れて、自己満足の実を集めてうること、そんな危険を啓示している。

マタイ7:21-23

21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。

23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

黙示録3:14-22

14 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。

15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。

16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。

17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。

18 そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。

19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。

20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。

22 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。 

  だからこそ、聖書のみ言葉を通して静かに良心に語りかけてくださる聖霊の声を蔑ろにしない者は幸いである。聖霊は私たちに罪を気付かせ、悔い改めるように促したり、私たちが自分たちの低さや卑しさに圧し潰されそうなとき、御子の尊き犠牲による義認を思い出させてくださるからである。

「父と子と聖霊との名によって」に関する考察

マタイ28:18-20

18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。

19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、

20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。 

  「父と子と聖霊との名によって」という箇所の「名 ̓́νομα / onoma」が原文において単数形であることから、神の三位一体論の根拠の一つとして引用されることが多い。

 しかし創世記48:16を引用し、そのヘブライ語原文において、またギリシャ語LXX訳においても「名」が単数形であることから、「必ずしもマタイ28:19の単数形は三位一体を啓示しているものではない」と主張する見解もある。

創世記48:16

すべての災からわたしをあがなわれたみ使よ、この子供たちを祝福してください。またわが名と先祖アブラハムとイサクの名とが、彼らによって唱えられますように、また彼らが地の上にふえひろがりますように」。  

 つまりここではアブラハムとイサクという、固有の人格をもつ個別の二人に対して「名」が単数形で使われているのだから、マタイ28:19も必ずしも三位一体を顕わしていると言い切れない、という意見である。

 しかし、そもそもマタイ28:19の「父と子と聖霊との名によって」は、「御父と御子、御霊のそれぞれ個別の三位格を代表する唯一の名前によって」を意味しているのだろうか。確かに、使徒2:38や4:12、ピリピ2:9,10などを読むと、御子イエス・キリストの名がその「代表する唯一の名」のような印象があるが、しかしマタイは「父と子と聖霊と」と三位格を書いているのであって、「御子の名によって」とは表現していないのである。

 むしろここでの「名」は、「νομα / onoma」の語意のなかに含まれている「権威」、つまりその名をもつ人物の全てと切り離すことのできない本質を表している。したがって「父と子と聖霊との名によって/in (into) the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Spirit」は、「御父と御子と御霊の、全ての権威と光栄と属性と働きにおいて」という意味である。(これは、「父と子と聖霊との名によって」受ける水のバプテスマに、無限の深みを与えていないだろうか。) この表現が、無数の「神々」の存在に信じていたギリシャ人やローマ人に対してではなく、神の絶対的唯一性を信じていたユダヤ人を対象に書かれた『マタイによる福音書』の中で使われているのは、非常に意義深い。

 そして神自身が、ご自分の同等の栄光を他の者に与えず、何者も等しくあることできないと宣言している以上、「御父と御子と御霊との名(単数)」が唯一の神を啓示している以外にないのである。

イザヤ48:11

わたしは自分のために、自分のためにこれを行う。どうしてわが名を汚させることができよう。わたしはわが栄光をほかの者に与えることをしない。

イザヤ46:5;9

5 あなたがたは、わたしをだれにたぐい、だれと等しくし、だれにくらべ、かつなぞらえようとするのか。

9 いにしえよりこのかたの事をおぼえよ。わたしは神である、わたしのほかに神はない。わたしは神である、わたしと等しい者はない。

 そして創世記48:16の文脈を確認すると、ヨセフの長男マナセと次男エフライムを彼らの父祖にあたるヤコブが自分の子供として「贖うこと」、そしてヨセフの三男以降がヨセフの子として数えられること、しかし彼らが家を継ぐ時は「エフライムとマナセ」の名(単数)で呼ばれなければならない、と定めている。

創世記48:3-6(新改訳)

3 ヤコブはヨセフに言った。「全能の神がカナンの地ルズで私に現われ、私を祝福して、

4 私に仰せられた。『わたしはあなたに多くの子を与えよう。あなたをふやし、あなたを多くの民のつどいとし、またこの地をあなたの後の子孫に与え、永久の所有としよう。』

5 今、私がエジプトに来る前に、エジプトの地で生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる。エフライムとマナセはルベンやシメオンと同じように私の子にする。

6 しかしあとからあなたに生まれる子どもたちはあなたのものになる。しかし、彼らが家を継ぐ場合、彼らは、彼らの兄たちの名を名のらなければならない。 

 とても難解な定めだが、要するにヨセフがヤコブの他の子たちに比較して二倍の祝福を受け、ヨセフの三男以降の子らも、「エフライムとマナセの名によって」そのヤコブによる二倍の祝福の与ることができることが約束されていたことになる。だからここでも「名」は名前そのものではなく(ヨセフの三男以降から生れた子孫全員が、「エフライムとマナセ」という名前を名乗らなければいけない、という意味ではなかった)、「神の祝福の約束」や「名誉」を意味している。

 またヤコブ(ここでは「イスラエル」と呼ばれているのは興味深い)がエフライムとマナセを「私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。」と祝福した時、それは「神の御前に歩んだ信仰者としてヤコブの証しが、同じ信仰によって御前に歩んだアブラハムとイサクの証しと共に、エフライムとマナセの子孫に語り継がれますように」という意味をもっていたと解釈できる。

創世記48:14-16

14 すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。

15 それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。

16 すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。」 

 したがって創世記48章の用法は、マタイ28:19の「名」の三位一体論をサポートし得るが、否定するものではないことがわかる。