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an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

一瞬の光

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昼間でも薄暗い裏道に射し込む一瞬の光。

 

反射光に霞む空気に、思わず立ち止まってしまう「何か」を感じる。

記憶、存在。

 

そして何事もなかったかのように、

角を曲がって喧噪の中に入っていく。

使徒パウロの律法解釈の一例:「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」

Ⅰコリント9:1-18

1 わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主にあるわたしの働きの実ではないか。

2 わたしは、ほかの人に対しては使徒でないとしても、あなたがたには使徒である。あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職の印なのである。

3 わたしの批判者たちに対する弁明は、これである。

4 わたしたちには、飲み食いをする権利がないのか。

5 わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。

6 それとも、わたしとバルナバとだけには、労働をせずにいる権利がないのか。

7 いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があろうか。ぶどう畑を作っていて、その実を食べない者があろうか。また、羊を飼っていて、その乳を飲まない者があろうか。

8 わたしは、人間の考えでこう言うのではない。律法もまた、そのように言っているではないか。

9 すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。

10 それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。

11 もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。

12 もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。

13 あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。

14 それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。

15 しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇は、何者にも奪い去られてはならないのだ。

16 わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。

17 進んでそれをすれば、報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務なのである。

18 それでは、その報酬はなんであるか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである。

 使徒パウロは、自分の宣教活動によって建て上げたコリント教会の中で自分の使徒としての立場を厳しく批判していた人々に対して、「弁明」というかたちで、いくつかの問いを投げかけている。

  • わたしたちには、飲み食いをする権利がないのか。

  • わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。

  • それとも、わたしとバルナバとだけには、労働をせずにいる権利がないのか。

  • いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があろうか。

  • ぶどう畑を作っていて、その実を食べない者があろうか。

  • また、羊を飼っていて、その乳を飲まない者があろうか。

 非常に具体的で実践的な状況における三つの問いかけの後、軍隊と農業、そして牧畜という当時の社会における身近な要素を譬えにして、あとの三つの問いかけをしている。

 そしてその六つの問いかけの後、モーセの律法の一節を引用し、自分の弁明が主観的・人間的な考えに基づいたものではなく、神の律法においても論拠を見出せるものであることを示している。

わたしは、人間の考えでこう言うのではない。律法もまた、そのように言っているではないか。すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。

 これは申命記25:4を引用したものである。もしコリント教会の兄弟姉妹が、エルサレムの教会のようにユダヤ人クリスチャン主体であったら、「律法もまたそのように言っているではないか」とは書かず、最初から律法を引用していただろうが、コリント教会にはユダヤ人もいたものの、大多数はギリシャ人であったので、このような弁明のプロセスを選んだのだろうと思われる。

 これは律法の解釈の上でも、非常に興味深い引用である。というのも、申命記25章は非常に実践的な戒めが列記されており、申命記の節自体をどのように読んでも「福音を宣べ伝えている者たち」について書かれている要素は見い出すことはできないからである。

 当然、神がモーセを通してこの戒めを与えた時、それはまさに農作業を営む者に対して「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と教えていたのだが、御子イエスの恵みによって救いの福音を伝えるようになったパウロにとっては、その戒めは一義的な意味を超えて霊的な意味で解釈し、もはや牛ではなく福音に仕える人間(「耕す者」「穀物をこなす者」)に適用すべき戒律だったのである。

神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。

 しかし使徒パウロは、この戒律を牛ではなく福音に仕える者に適用するにあたって、ただ律法の中の戒律として「~しなさい。それを守らなければ、律法によって呪われ、神の裁きを受けるだろう」という概念を用いてはいないことは注目すべきである。

 むしろその主の定めを認識しながらも、彼自身、その権利を利用しなかったことが明記されている。

それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。

しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。

 つまり戒律主義的に、「主イエス・キリストは、申命記25:4に書いてある通り、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを定めている。もしあなた方がそれを守ったら祝福を受けるだろう。しかしもしそれを守らなかったら、神の定めを背くことになり、あなた方は裁きを受けるだろう」とは語っていないのである。

 むしろ福音伝道者としての誇り、つまり「福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないこと」を根拠に、その主の定めを自分自身に適用することを拒否しているのである。

 勿論、それは使徒パウロがその主の定めを軽視していたことを意味しない。なぜなら同じ定めについて、同じ福音伝道者であったテモテに対して書き送っているからである。

Ⅰテモテ5:17-18

17 よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。

18 聖書は、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」また「働き人がその報酬を受けるのは当然である」と言っている。 

  これは「主の定め」というものがあって、兄弟姉妹が聖霊の促しと導きによって、戒律に従うためというよりも、自主的に喜びをもって福音宣教の参加することを望んでいることを示していると言える。

 それは、同じコリント教会に宛てた「施しの教え」を読むことでも読み取れることである。

Ⅱコリント9:6-15

6 わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。

7 各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。

8 神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。

9 「彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」と書いてあるとおりである。

10 種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。

11 こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。

12 なぜなら、この援助の働きは、聖徒たちの欠乏を補えだけではなく、神に対する多くの感謝によってますます豊かになるからである。

13 すなわち、この援助を行った結果として、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であることや、彼らにも、すべての人にも、惜しみなく施しをしていることがわかってきて、彼らは神に栄光を帰し、

14 そして、あなたがたに賜わったきわめて豊かな神の恵みのゆえに、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのである。

15 言いつくせない賜物のゆえに、神に感謝する。 

  現代の福音主義の兆候を考えると、これらの言葉の中に「什一献金制度」の適用によくみられるような戒律的な強要や、信徒を見下す傲慢な「特権階級的意識」が皆無であることは、特筆すべきことではないだろうかと思う。

バラクもエフタもいる

へブル11:32-34

32 このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。

33 彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、

34 火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。 

 『第一コリント』の13章が「愛の章」として知られているように、『へブルびとへの手紙』の11章は「信仰の章」として、信仰の定義から始まり、旧約聖書の中に記されている「信仰に生きた神の証人たち」の名を数多くの挙げている。

 アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデなどは非常に知られている名前であり、聖書を読んだことがない方でも、一度はどこかで聞いたことがあるかもしれないが、バラクとかエフタという名前を読んで、どのような人物であるか即座に説明できる人は、聖書を長年読んでいる信仰者であっても、それほど多くはいないのではないだろうか。

 バラクもエフタも、イスラエルの民が約束の地を占領し、安住し始めてからしばらく経った時代の人物で、『士師記』の中に登場する。バラクは士師記の4章と5章に、エフタは11章と12章に記されているので、実際に聖書で確認していただけるが、この二人の人生は、「信仰に生きた勇者」と定義するにはちょっと躊躇してしまうようなものではないだろうか。

 いや、もし神の霊感によらず、私たちの倫理的・知的基準で『へブルびとへの手紙』の11章を書いていたとしたら、決してバラクやエフタの名前をリストの中には入れなかったのではないかと思う。サムソンの名など、頭の片隅にも浮かばなかっただろう。おそらく彼らの名前を書く代わりに、「預言者たち」の具体的な名前、例えばエレミヤやハバクク(新約聖書において「義人は信仰によって生きる」というハバククの言葉が何度引用されているか確認してみてほしい)の名前を書き記したことであろう。

 同じ「とまどい」は以下の聖句についても言えるのではないだろうか。

Ⅱペテロ2:6-7

6 また、ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、

7 ただ、非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。 

 私たちが筆者の立場で『創世記』に書き記されているロトの人物像と生涯を解釈していたら、果たして「義人」という表現をロトに適用しただろうか。

 これらのことは、私たちが聖書を読み、それを解釈しようとするとき、恵みの霊、つまり聖霊によってのみ真意を読み取ることができるということを教示している。なぜなら、私たちの理知的判断や倫理的基準は、たとえそれらが学問的に正確で倫理的に崇高であっても、神の思いと一致しているとは限らないからである。

 その最も顕著な例は、聖書全体の中心的メッセージである「十字架の言」であり、「隠された奥義としての神の知恵」であるキリストである。

Ⅰコリント1:18-25

18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。

19 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。

20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。

21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。

22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。

23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、

24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。

25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

Ⅰコリント2:6-13

6 しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。

7 むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。

8 この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。

9 しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。

10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。

11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。

12 ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。

13 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。 

 

雲ではなく、太陽を見つめて

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へブル11:39-40;12:1-3(新改訳)

39 この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。

40 神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。

1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。 

  「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」 

 この書簡の筆記者は、一つの巨大な雲のイメージを使い、イエス・キリストを信じた信仰者が、11章の中で列挙されている旧約聖書の神の証人たちの証しに取り囲まれていることを根拠に、「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けよう」と励ましている。

 実際、「このように多くの証人たち」として、アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ラハブ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、そして預言者たちと、よく知られた名前が並んでいる。これらの信仰の証人たちが、神のよって約束されたさらに優れたものを私たちと共に受け取るために、「雲のように私たちを取り巻いている」と書かれているのである。

 何という励ましだろうか。しかも「私たちを取り巻いている」のであって、「私たちを上から見下ろしている」とは表現されいていない。これは私たちは未だに地上のこの世で生きているものの、信仰によって「天の御座の前に座り、天の祝福を受け取っている」ことを暗示している。

エペソ1:3-6

3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、

4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、

5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。

6 これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。

エペソ2:4-7

4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、

5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――

6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。

7 それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。 

 私たちも11章の信仰の証人たちと同様、「愛する御子によって賜わった栄光ある恵み」や「キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富」を褒め称え、きたるべき世々に示すために、御子と共に天上の御座の前に導かれた証人なのである。

 しかしこの地上の生を終え、贖いが完成するまでは、私たちの目の前には向き合うべき競走が置かれている。昨日の記事において、私たちの競走が「人々の注目と歓声の中、華やかに走り抜ける短距離走というよりは、多くのアップダウンと障害物を乗り越えなければならないクロスカントリーのようなイメージに近いであろう」と書いたが、やはりいくら旧約聖書の信仰の証人たちに雲のように取り巻かれているとしても、彼らが競技場の観客席や沿道で歓声を上げて応援しているとイメージするのは間違っているだろう。そのようなイメージは、過去の「聖人」が地上の信仰者に干渉するというような「聖人崇拝」の教えに不用意に近づく可能性がある。

 そう、冒頭の聖句が勧めているいるように、ゴールを目指し、競走を走っている私たちが見つめるべき方は、御子イエス・キリストのみである。私たちを取り巻く「雲」ではなく、私たちの心を照らし、癒しと力を与えて下さる「義なる太陽」を見つめ続けよう。

マラキ4:2

しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。

へブル12:2-3

2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。 

私たちの前に置かれている競走

へブル11:39-40;12:1-3(新改訳)

39 さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。

40 神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。

1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。 

 「私たちの前に置かれている競走」

 「競走」と和訳されている【ἀγών / agōn】は、新約聖書の他の箇所では、「苦闘」とか「戦い」と訳されている。

ピリピ1:30

あなたがたは、さきにわたしについて見、今またわたしについて聞いているのと同じ苦闘を、続けているのである。

コロサイ2:1

わたしが、あなたがたとラオデキヤにいる人たちのため、また、直接にはまだ会ったことのない人々のために、どんなに苦闘しているか、わかってもらいたい。

Ⅰテサロニケ2:2

それどころか、あなたがたが知っているように、わたしたちは、先にピリピで苦しめられ、はずかしめられたにもかかわらず、わたしたちの神に勇気を与えられて、激しい苦闘のうちに神の福音をあなたがたに語ったのである。

Ⅰテモテ6:12

信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。

Ⅱテモテ4:7

わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。

 「走る」という動詞が同じ文で使われているから、「競走」という訳が的確だろう。しかし「競走」と言っても、一世紀においても様々なタイプがあった。へブル人への手紙の筆者は当時のマラソンのようなものを思い浮かべていたのだろうか。

 いずれにせよ、筆者の言葉自体が、その「競走」の霊的特徴を示している。

イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。

 その「競走」は、「はずかしめ」や「罪人たちの反抗」を通り、「十字架」を通過しなければならなかった御子の道に似た、「十字架の行程」なのである。それは、人々の注目と歓声の中、華やかに走り抜ける短距離走というよりは、多くのアップダウンと障害物を乗り越えなければならないクロスカントリーのようなイメージに近いであろう。周りで応援する人々もいない、でこぼこのコース。泥に足を滑らせ、転んでしまう危険さえある。

 しかしその競走の行程を進む者の目の前には、聖霊の助けにより、御子イエスがおられるのである。そして弱気になったり、力尽きそうになる私たちを絶えず励ましてくださるのだ。「あきらめるな、大丈夫だ。私は最後まであなたと共にいるから」と。

 それと同時に、過去の多くの信仰者が、私たちがゴールに辿り着き、同じ「朽ちない冠」「義の冠」を受け取るのを今か今かと待ちわびている(「彼らが私たちと別に全うされるということはなかった」とまで書いてある!)のである。

Ⅱテモテ4:7-8

7 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。

8 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。 

 

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七つの封印の巻物に関する「予告編」「本編」の解釈について

終末の時代に起こること――患難時代

封印の幻は一種の予告編

私たちは、第七の封印の内容として七つのラッパがあり、第七のラッパの内容として七つの鉢があることを見ました。

ここで、「封印」「ラッパ」また「鉢」の関係はどうなっているのかについて、もう一度詳しく見てみましょう。

封印の幻は、預言の「巻き物」の外側の文字によるものであり、ラッパの幻は、内側の文字によるものです。つまり、封印の幻は"予告編"のようなものであり、ラッパの幻が"本編"なのだと言うことができるでしょう。

封印の幻は、ちょうど映画の"予告編"のようなものなのです。映画館では、よく近日上映の映画の予告編が見せられます。

予告編は、映画の幾つかの場面を人々に見せることにより、実際の映画がどのような雰囲気を持ったものかを示します。それと同様に、封印の幻という"予告編"は、終末の時代に関するラッパの幻の"本編"に入る前に、その幾つかの場面を見せるものとなっているのです。

第四の封印の幻は、多くの"死"です。

「第四の封印を解いたとき・・・・私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデス(よみ=死者の世界)がつき従った。彼らに、地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣(独裁者)によって殺す権威が与えられた」(黙示六・七~八)。

患難時代には多くの人々が、戦争や、ききんや、死病や、世界的独裁者(象徴的に獣と呼ばれる)の圧政によって死ぬのです。

つぎは第六の封印の幻ですが、私たちはこれにとくに注目すべきでしょう。この幻は患難時代のあと、千年王国も終わって、天地が過ぎ去り、最後の審判の法廷が開かれる時のものだからです。
「第六の封印を解いた時・・・・天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された」(黙示六・一二~一七)。
これは明らかに、天地が過ぎ去る時・・万物更新の時のことを言っています。「患難時代」の後に「千年王国」があり、そののち天地は過ぎ去り、最後の審判の法廷が神の御座において開かれるのです。
第六の封印の幻は、その時のことまで垣間みさせているわけです。これは「封印の幻」が、"本編"預言に入る前の、いわば"予告編"だからなのです。

(一部抜粋引用)

  七つの封印の巻物の表と内側の啓示を、映画の「予告編」と「本編」というイメージを使って説明するのは、現代に生きる私たちにとって非常に理解しやすいものだが、実際に聖書に啓示されている詳細を確認すると、「予告編」「本編」というイメージが適切ではなく、七つの封印が解かれる時の啓示は、封印が解かれた後に起きる「本編」の内容の一部を予告紹介しているわけではないことが理解できる。

 特に私は「第四の封印の啓示」と「第六の封印の啓示」について上記の記事から抜粋した。

 第四の封印が解かれた時、青白い馬に乗った「死」とそれに従う黄泉に、地上に四分の一を殺す権威が与えられた、とある。

黙示録6:7-8(新改訳)

7 小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい。」と言うのを聞いた。

8 私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。

 しかし七つ目の封印が解かれた後、少なくとも人類の三分の一、実際にはそれを遥かに超えるだろう人々が、大きな災害や、四人の御使いを通して殺されると啓示されているのである。

黙示録8:10-11

10 第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。

11 この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。

黙示録9:13-18

13 第六の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、一つの声が、神のみまえにある金の祭壇の四つの角から出て、

14 ラッパを持っている第六の御使にこう呼びかけるのを、わたしは聞いた。「大ユウフラテ川のほとりにつながれている四人の御使を、解いてやれ」。

15 すると、その時、その日、その月、その年に備えておかれた四人の御使が、人間の三分の一を殺すために、解き放たれた。

16 騎兵隊の数は二億であった。わたしはその数を聞いた。

17 そして、まぼろしの中で、それらの馬とそれに乗っている者たちとを見ると、乗っている者たちは、火の色と青玉色と硫黄の色の胸当をつけていた。そして、それらの馬の頭はししの頭のようであって、その口から火と煙と硫黄とが、出ていた。

18 この三つの災害、すなわち、彼らの口から出て来る火と煙と硫黄とによって、人間の三分の一は殺されてしまった。 

 特に「その時、その日、その月、その年に備えておかれた四人の御使」を通して、二億の騎兵隊によってその人類の三分の一の大殺戮が起こるわけだから、「予告編」の中で「本編」において人類の四分の一の人々が死ぬ、と宣言するのも一貫性に欠けるだろう。大患難期の予め決められた年月日、さらに時間まで予定され、人類の三分の一が殺されてしまうならば、大患難期全体で人類の四分の一が死に渡されると「予告」するのもおかしな話である。

 また第六の封印の啓示に関して、「この幻は患難時代のあと、千年王国も終わって、天地が過ぎ去り、最後の審判の法廷が開かれる時のものだからです。」と書かれているが、実際に第六の封印が解かれた時の啓示の全体を確認してみると、その解釈は間違っていることがわかる。なぜなら地上の人々は「御怒りの大いなる日」、つまり「キリストの地上来臨と諸国の裁きの日」の到来を悟って怖れおののき、何とか身を隠そうとするのだが、最後の審判が行われる時には、人々が隠れる洞穴も山の岩間も存在せず、「私たちをかくまってくれ」と叫び求めるような山も岩も、すでに消え去って無くなり、人々は何もない状態で主の裁きの前に立つことになるからである。

黙示録6:12-17

12 私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。

13 そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。

14 天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。

15 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、

16 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。

17 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

黙示録20:11-15

11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。

12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。

14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。 

 七つの封印の開封の啓示は、大患難の「予告編」というより、「主イエス・キリストが来られる時や世の終わりの前兆(しるし σημεῖον / sēmeion)」であり、「産みの苦しみの初め」であって、すでに幕は開けられ、多くの苦痛と無数の命の損失を伴う大患難期の始まりは、不可逆的に始まっているのである。

マタイ24:3-14

3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

4 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。

5 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。

6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。

7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。

8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。

10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。

12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

 

白い雲の上に座る人の子による刈り入れ

黙示録1:7

見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。

 「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。」という啓示は、御子自身がダニエル書の預言を引用して主の日に地上に再臨される時の様子を語った預言である。

ダニエル7:13-14

13 わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。

14 彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。

マタイ24:30-31

30 そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。

31 また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。

マタイ26:63-64

63 しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司は言った、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」。

64 イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。 

 興味深い点は、「人の子が雲に乗ってこられる」という再臨のイメージが引用されている他の箇所は、黙示録の中で以下の聖句以外にないことである。それは冒頭の黙示録1:7の預言が、以下の聖句において成就していると筆者ヨハネが考えていたことを暗示していると言える。

黙示録14:14-20

14 また見ていると、見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠をいただき、手には鋭いかまを持っていた。

15 すると、もうひとりの御使が聖所から出てきて、雲の上に座している者にむかって大声で叫んだ、「かまを入れて刈り取りなさい。地の穀物は全く実り、刈り取るべき時がきた」。

16 雲の上に座している者は、そのかまを地に投げ入れた。すると、地のものが刈り取られた。

17 また、もうひとりの御使が、天の聖所から出てきたが、彼もまた鋭いかまを持っていた。

18 さらに、もうひとりの御使で、火を支配する権威を持っている者が、祭壇から出てきて、鋭いかまを持つ御使にむかい、大声で言った、「その鋭いかまを地に入れて、地のぶどうのふさを刈り集めなさい。ぶどうの実がすでに熟しているから」。 

19 そこで、御使はそのかまを地に投げ入れて、地のぶどうを刈り集め、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ込んだ。 

20 そして、その酒ぶねが都の外で踏まれた。すると、血が酒ぶねから流れ出て、馬のくつわにとどくほどになり、一千六百丁にわたってひろがった。

 ここでは「白い雲の上に乗った人の子のような者」が、「地の穀物は全く実り、刈り取るべき時がきた」ので、その実を「刈り入れ」している。これはマタイ24章で啓示されている「主の来臨に伴う選民の召集」と共通する。

マタイ24:30-31

30 そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。

31 また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。

 そして御子によるご自身のための実の収穫と、御使いによる神の激しい怒りのためのブドウの収穫の二面性は、「麦と毒麦の譬え」を思い出す。

マタイ13:24-30;36-43

24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。 

25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。 

26 麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。 

27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』 

28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』

29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。

30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」

36 それから、イエスは群衆と別れて家にはいられた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください。」と言った。

37 イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。

38 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。

39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。

40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。

41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、

42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

43 そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。 

 この「白い雲の上に乗った人の子による刈り取り」の後、地上における神の激しい怒り、つまり神の正しい裁きが頂点に達する(τελέω teleō 完成する)ことになる。「七つの災害」(「神の激しい怒りの七つの鉢」黙示録16:1)に「最後の」と記されているのは、非常に意味深い。つまり大患難期がクライマックスを迎えたと言える。

黙示録15:1

またわたしは、天に大いなる驚くべきほかのしるしを見た。七人の御使が、最後の七つの災害を携えていた。これらの災害で神の激しい怒りがその頂点に達するのである。

 そして地上の諸国に対する神の怒りが頂点に達する時、天においては「獣とその像とその名の数字とにうち勝った人々」が、エジプトを脱出して紅海を奇跡的に歩いて渡ったイスラエルの民が、パロの軍勢を飲み込んだ紅海の対岸で勝利の歌を歌ったように(出エジプト記15)、神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌い、神の御名を賛美することになる。

黙示録15:2-4

2 またわたしは、火のまじったガラスの海のようなものを見た。そして、このガラスの海のそばに、獣とその像とその名の数字とにうち勝った人々が、神の立琴を手にして立っているのを見た。

3 彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌って言った、「全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります。万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります。

4 主よ、あなたをおそれず、御名をほめたたえない者が、ありましょうか。あなただけが聖なるかたであり、あらゆる国民はきて、あなたを伏し拝むでしょう。あなたの正しいさばきが、あらわれるに至ったからであります」。 

 補足になるが、この「白い雲の上に座る人の子による刈り入れ」と、黙示録20章に啓示されている「第一の復活」を瞬間的な出来事として一致させるのは、無理があると思える。

黙示録20:4-6

4 また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。

5 (それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。

6 この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。