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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

詩篇38篇(2)罪における人間の実態

詩篇38

1 記念のためにうたったダビデの歌

主よ、あなたの憤りをもってわたしを責めず、激しい怒りをもってわたしを懲らさないでください。 

2 あなたの矢がわたしに突き刺さり、あなたの手がわたしの上にくだりました。 

3 あなたの怒りによって、わたしの肉には全きところなく、わたしの罪によって、わたしの骨には健やかなところはありません。 

4 わたしの不義はわたしの頭を越え、重荷のように重くて負うことができません。 

5 わたしの愚かによって、わたしの傷は悪臭を放ち、腐れただれました。

6 わたしは折れかがんで、いたくうなだれ、ひねもす悲しんで歩くのです。 

7 わたしの腰はことごとく焼け、わたしの肉には全きところがありません。 

8 わたしは衰えはて、いたく打ちひしがれ、わたしの心の激しい騒ぎによってうめき叫びます。 

9 主よ、わたしのすべての願いはあなたに知られ、わたしの嘆きはあなたに隠れることはありません。 

10 わたしの胸は激しく打ち、わたしの力は衰え、わたしの目の光もまた、わたしを離れ去りました。 

11 わが友、わがともがらはわたしの災を見て離れて立ち、わが親族もまた遠く離れて立っています。

12 わたしのいのちを求める者はわなを設け、わたしをそこなおうとする者は滅ぼすことを語り、ひねもす欺くことをはかるのです。 

13 しかしわたしは耳しいのように聞かず、おしのように口を開きません。 

14 まことに、わたしは聞かない人のごとく、議論を口にしない人のようです。 

15 しかし、主よ、わたしはあなたを待ち望みます。わが神、主よ、あなたこそわたしに答えられるのです。 

16 わたしは祈ります、「わが足のすべるとき、わたしにむかって高ぶる彼らにわたしのことによって喜ぶことをゆるさないでください」と。 

17 わたしは倒れるばかりになり、わたしの苦しみは常にわたしと共にあります。 

18 わたしは、みずから不義を言いあらわし、わが罪のために悲しみます。

19 ゆえなく、わたしに敵する者は強く、偽ってわたしを憎む者は多いのです。

20 悪をもって善に報いる者は、わたしがよい事に従うがゆえに、わがあだとなります。

21 主よ、わたしを捨てないでください。わが神よ、わたしに遠ざからないでください。

22 主、わが救よ、すみやかにわたしをお助けください。 

  聖霊を通して主なる神の義と聖の光を受けた詩篇記者ダビデは、自分の現実の姿を認め、それを実に生々しく表現している。

  • わたしの肉には全きところなく
  • わたしの骨には健やかなところはありません。
  • わたしの不義はわたしの頭を越え、重荷のように重くて負うことができません。
  • わたしの愚かによって、わたしの傷は悪臭を放ち、腐れただれました。
  • わたしは折れかがんで、いたくうなだれ、ひねもす悲しんで歩くのです。
  • わたしの腰はことごとく焼け、わたしの肉には全きところがありません。
  • わたしは衰えはて、いたく打ちひしがれ、わたしの心の激しい騒ぎによってうめき叫びます。
  • わたしの胸は激しく打ち、わたしの力は衰え、わたしの目の光もまた、わたしを離れ去りました。
  • わが友、わがともがらはわたしの災を見て離れて立ち、わが親族もまた遠く離れて立っています。
  • わたしのいのちを求める者はわなを設け、わたしをそこなおうとする者は滅ぼすことを語り、ひねもす欺くことをはかるのです。
  • わたしは耳しいのように聞かず、おしのように口を開きません。
  • わたしは聞かない人のごとく、議論を口にしない人のようです。  

 ダビデが肉体的に病気を患っていたかは定かではないが、心の罪責感がダビデの身体からも力や健康を奪っていたことがよくわかる。また対人関係などにも深く悪影響を与えていたことも記されている。

 このような告白は、詩篇32篇の中にもみられる。

詩篇32:1-5

1 そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。

2 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。

3 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。

4 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。〔セラ

5 わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ

 魂が渇ききり、負いきれないほどの重荷に呼吸さえできず、慢性的酸欠状態の中にいるような、また方向性を失って彷徨い、暗闇に一人佇む状態。申命記28:15-68に啓示されている「律法による神の呪い」の中でも言及されている「罪における人間の実態」である。

 しかしこの詩篇は、そのような絶望的な実態にもがき苦しむ魂には、恵みと憐みによって、「主よ」(1、9、15、21、22節)と呼び求め、ご自身の正義と神聖によって「怒り」を示す神に向かって、「わが神よ」(15、21節)と叫ぶことが許されているのが啓示されている。

 その恵みは、私たちすべての罪とその呪いを十字架の上で背負った御子が、その十字架から「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫び、私たちの身代わりとなって命を捧げてくださった、その御子の霊によって私たちのに与えられているものである。

詩篇38篇(1)神の怒り

詩篇38

1 主よ、あなたの憤りをもってわたしを責めず、激しい怒りをもってわたしを懲らさないでください。

2 あなたの矢がわたしに突き刺さり、あなたの手がわたしの上にくだりました。

3 あなたの怒りによって、わたしの肉には全きところなく、わたしの罪によって、わたしの骨には健やかなところはありません。

4 わたしの不義はわたしの頭を越え、重荷のように重くて負うことができません。

5 わたしの愚かによって、わたしの傷は悪臭を放ち、腐れただれました。

6 わたしは折れかがんで、いたくうなだれ、ひねもす悲しんで歩くのです。

7 わたしの腰はことごとく焼け、わたしの肉には全きところがありません。

8 わたしは衰えはて、いたく打ちひしがれ、わたしの心の激しい騒ぎによってうめき叫びます。

9 主よ、わたしのすべての願いはあなたに知られ、わたしの嘆きはあなたに隠れることはありません。

10 わたしの胸は激しく打ち、わたしの力は衰え、わたしの目の光もまた、わたしを離れ去りました。

11 わが友、わがともがらは/わたしの災を見て離れて立ち、わが親族もまた遠く離れて立っています。

12 わたしのいのちを求める者はわなを設け、わたしをそこなおうとする者は滅ぼすことを語り、ひねもす欺くことをはかるのです。

13 しかしわたしは耳のきこえない人のように聞かず、口のきけない人のように話しません。

14 まことに、わたしは聞かない人のごとく、議論を口にしない人のようです。

15 しかし、主よ、わたしはあなたを待ち望みます。わが神、主よ、あなたこそわたしに答えられるのです。

16 わたしは祈ります、「わが足のすべるとき、わたしにむかって高ぶる彼らに/わたしのことによって喜ぶことを/ゆるさないでください」と。

17 わたしは倒れるばかりになり、わたしの苦しみは常にわたしと共にあります。

18 わたしは、みずから不義を言いあらわし、わが罪のために悲しみます。

19 ゆえなく、わたしに敵する者は強く、偽ってわたしを憎む者は多いのです。

20 悪をもって善に報いる者は、わたしがよい事に従うがゆえに、わがあだとなります。

21 主よ、わたしを捨てないでください。わが神よ、わたしに遠ざからないでください。

22 主、わが救よ、すみやかにわたしをお助けください。

 真なる神を知ろうとするとき、またその神が啓示している救いを求めるとき、「神の怒り」というテーマに向き合わずにいることはできない。詩篇記者であるダビデ王も、「あなたの憤り」「激しい怒り」「あなたの怒り」という表現を使って、その現実に向き合っていた。勿論、聖書はその「神の怒り、憤り」が人間のうちに見られるような感情的な顕れとは異なることを啓示している。

ヤコブ1:20

人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。

 神の怒りとは、人間の不義や罪に対する神の絶対的な正義や神聖さの啓示である。その啓示は抽象的な概念の提示よりもはるかにアクティブで、聖霊を通して受け取り側に強く働きかけるようなものであることは、「私を責める」「私を懲らす」「私に突き刺さる」「私の上にくだる」というダビデの表現からも理解できる。

 勿論、これらの強烈な表現から、神の正義の啓示に対して反抗心を抱き、「神の怒り=愛の欠如」と考えるのは間違っている。もしダビデが「神の怒り=愛の欠如」と考えていたら、何度も「主よ」と祈り求めることはできず、むしろ神の峻厳さに反抗していただろう。

 罪や不義に光を当てることが不当なのではなく、問題は私たちの罪や不義そのものだからである。それは3節にも示されている。

3 

あなたの怒りによって、わたしの肉には全きところなく、

わたしの罪によって、わたしの骨には健やかなところはありません。

 「あなたの怒りーわたしの肉」「わたしの罪ーわたしの骨」という関係がとても興味深い。つまり神の正義と神聖さの啓示によって、ダビデは自分の罪深さを悟らされていたが、それは自分自身の存在の核に「健やかなところがない」からであって、神の怒りがダビデの罪を増幅させていた、という意味ではない。

 電気を止められ、窓を閉めきったゴミ屋敷に入り、すべての窓を開けることが家の中のゴミを増やすのではない。窓から差し込む太陽の光は、ゴミに埋もれた家の中の実態に見えるようにしているだけである。

 しかし私たちの性質は、憤った神が窓を開け、外から火を投げ込んで家ごと燃やしてしまおうとしている、と考えがちである。実際には、主なる神は「ゴミ屋敷のゴミ」と「ゴミ屋敷の中に埋もれて生きている住人」とを識別してみておられる。

 以下の聖句によっても理解できる。

ローマ1:18

神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。

新改訳

不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して

塚本訳

神の怒りが彼らのあらゆる不信と不道徳とに対して

 「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間に対して、天から啓示される」とは書いていないのである。勿論、もし人間が頑なに神の真理の働きを阻み続け、それを最後まで続けた場合には、その人間自身の選択によって、永遠の裁きを受けることになる。

コロサイ3:1-8

1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。

2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。

3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。

4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。

6 これらのことのために、神の怒りが下るのである。

7 あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。

8 しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。 

 「これらのことをして」いたから、それを続けるなら「これらのことのために」神の怒りが下るとあるが、それと同時に「これらいっさいのことを捨て」ることは命じられているのは、イエス・キリストの十字架の働きによって捨てることが可能であるという、絶大な恵みの前提があるからである。

Ⅰヨハネ1:5-10

5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。

6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。

7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。

8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。

9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。

10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

2:1-2

1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。

2 彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。

 

病室にて

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「生きたい」と願いながらも

老衰していく肉体に閉じ込められている魂を前に、

人間は何をなし得ようか。

 

「正統性の自負心」のなかに籠城する宗教にとって、

薄暗い病室は、まるでゴルゴタの丘のように無意味で忌々しい場所なのか。

それははるか遠くに立ち、美しい神殿を見つめている。

 

薄っぺらいガラスのように脆く、

細い糸のように頼りのない空気、時、場。

 

しかし、ここにも「いのち」が静かに待っている。

十字架に架けられた御子のなかで。

 

主なる神が備えてくださる「祈りの場」

ヨナ1:17;2:1-10

17 主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。

cap.2

1 ヨナは魚の腹の中からその神、主に祈って、

2 言った、「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。

3 あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。

4 わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか』。

5 水がわたしをめぐって魂にまでおよび、淵はわたしを取り囲み、海草は山の根元でわたしの頭にまといついた。

6 わたしは地に下り、地の貫の木はいつもわたしの上にあった。しかしわが神、主よ、あなたはわが命を穴から救いあげられた。

7 わが魂がわたしのうちに弱っているとき、わたしは主をおぼえ、わたしの祈はあなたに至り、あなたの聖なる宮に達した。

8 むなしい偶像に心を寄せる者は、そのまことの忠節を捨てる。

9 しかしわたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。救は主にある」。

10 主は魚にお命じになったので、魚はヨナを陸に吐き出した。

  このエピソードを字義的に解釈しようが、または単なるシンボリズムとして捉えようが、魂の経験という意味においては、驚くほどリアリティーがあることは多くの信仰者が認めることではないだろうか。

 確かに主なる神は、自分の言動の結果に苦悩する人間にも「祈りの場」を備えてくださる。それはまるで未知の生き物の中にいるかのような、暗く、孤独で、四方から圧迫を受けてもみくちゃにされるような、そして生命力の全てを奪われるような経験かもしれない。這いつくばり、のたうち回って、泣き叫ぶしかないような「祈り」かもしれない。

 しかしその「祈り」は確かに、十字架に架けられ、葬られ、そして三日三晩ののち復活した御子イエス・キリストにおいて(In Christ)、主なる神の聖なる宮に達するのである。

わが魂がわたしのうちに弱っているとき、

わたしは主をおぼえ、

わたしの祈はあなたに至り、

あなたの聖なる宮に達した。

 むしろ十字架に架けられた御子の霊が、聖霊を通して、弱い罪びとである私たちの為にとりなしてくださるのである。

ローマ8:26-27

26 御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。

27 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。

イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて

マタイ18:1-6

1 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。

2 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、 

3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 

4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。 

5 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。

6 しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。 

「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」

 弟子たちは完全に間違った前提のもとに、御子イエスに対してこの質問をした。彼らは喜び讃えながら「主よ、あなたが天国で一番偉い方です!」と言うべきだった。ほんの部分的にせよ、弟子たちは御子のアイデンティティーとその栄光の姿を見てからそれほど時間が経っていないかったのだから、なおさらである。

マタイ16:13-19

13  イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。 

14 彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。 

15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。 

16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。 

17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。 

18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。 

19 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。 

マタイ17:1-8

1 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 

2 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。 

3 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。 

4 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。 

5 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。 

6 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。

7 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。 

8 彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。 

 少なくともこの二つのエピソードに共通しているペテロは、他の弟子たちがお互いに比較し合っていたとしても、率先して「主よ、あなたが天国で一番偉い方です!あなたこそ生ける神の子、主の主、王の王です!」と言えるだけの体験はしていたはずであった。

 しかしそのような弟子たちに対して、御子イエスは呆れて「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。」(マタイ17:17)と再び言うこともできた。また弟子たちの質問に対して「私こそ、天国で一番偉い者である」と宣言したとしても、それは真理以外のなにものでもなかった。

 だが御子イエスの言動は、誰も想像していなかったものであった。

すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、 

 おそらく周りに大勢いた子供たちの中から、一人の幼な子を呼び寄せ(手招きしている御子イエスと、その招きに目を丸くして驚いている子供の顔が想像できないだろうか)、弟子たちの真ん中に立たせたのである。聖書はその子の名も、誰の子であるかも記録していない。ただ御子によって、「天の国を代表するもの」として弟子たちに示すために選ばれたのである。

3 よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 

 興味深いのは、この3節の「幼な子」が複数形であることだ。つまり御子はこの幼な子が何か特別な才能や徳をもっていたから選んだのではなく、シンプルな信頼をもつ存在を代表する一人として、弟子たちの間に立たせたのだ。

 しかし4節では、「この幼な子」と単数形で、まさしく選ばれた子を実例として示している。

4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。 

 この子がどのくらいの年齢だったか明らかではないが、ある程度の年齢の子供だったら、この御子の言葉に大いに励まされ、自ら御子に従いたいという思いに駆られたのではないだろうか。「イエス様は、ボクのことを天国で一番偉い人みたいに言ってくれた!」と。

 このエピソードは見事に「恵みの福音の本質」をあらわしている。神の一方的な愛をシンプルな心で信頼するならば、その救いの素晴らしさを実際に経験することができる。そしてその恵みを私達が受けることができるために、如何に御子イエスが遜ってくださったか、そのことを知り、彼だけに従い、彼だけを誇る心が与えられる。

マタイ11:25-30

25 そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました

26 父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。

27 すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。

28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。

30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。 

Ⅰコリント1:26-31

26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。 

27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、 

28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。 

29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。 

30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。 

31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。  

人の知恵によらず、神の力による信仰

Ⅰコリント2:1-5

1 兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。 

2 なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。

3 わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。 

4 そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。 

5 それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。 

 「人間の巧みな知恵の言葉によらない」、「十字架につけられたキリスト」だけを源泉とする「神の力による信仰」を、私達は知っているだろうか。それに生きているだろうか。一瞬の恍惚を味わうことでも、頭の上から電流が流れるような体験とかいう問題ではなく、本当に十字架につけられたキリストからのみ湧き出る神の力によって、自分の信仰が支えられているだろうか。

 これには、信仰者それぞれの中で意識的選択が迫られる。使徒パウロは、ギリシャのコリントへ行く前にアテネのアレオパゴスで宣教活動したのだが、そこで使ったのと同じアプローチで、コリントの人々に対して伝道することもできたはずである。

使徒17:16-32

16 さて、パウロはアテネで彼らを待っている間に、市内に偶像がおびただしくあるのを見て、心に憤りを感じた。 

17 そこで彼は、会堂ではユダヤ人や信心深い人たちと論じ、広場では毎日そこで出会う人々を相手に論じた。 

18 また、エピクロス派やストア派の哲学者数人も、パウロと議論を戦わせていたが、その中のある者たちが言った、「このおしゃべりは、いったい、何を言おうとしているのか」。また、ほかの者たちは、「あれは、異国の神々を伝えようとしているらしい」と言った。パウロが、イエスと復活とを、宣べ伝えていたからであった。 

19 そこで、彼らはパウロをアレオパゴスの評議所に連れて行って、「君の語っている新しい教がどんなものか、知らせてもらえまいか。 

20 君がなんだか珍らしいことをわれわれに聞かせているので、それがなんの事なのか知りたいと思うのだ」と言った。 

21 いったい、アテネ人もそこに滞在している外国人もみな、何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしていたのである。 

22 そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。 

23 実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。 

24 この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。

25 また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、 

26 また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。 

27 こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。

28 われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。 

29 このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。 

30 神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。 

31 神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。 

32 死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。 

 使徒パウロは、さらに多くのギリシャ哲学者の言葉を引用しながら、人々の関心を引き寄せることもできたであろう。彼はまた「イエスと復活とを宣べ伝えていた」し、「万物を造った神、天地の主」を説き、「悔い改めなければならない」と勧めていた。しかも、そのパウロの伝道によって、聴衆の中の幾人は救われていたのである!キリストの証し人であったら、誰でも心願う結果を得ていたのである。

使徒17:34

しかし、彼にしたがって信じた者も、幾人かあった。その中には、アレオパゴスの裁判人デオヌシオとダマリスという女、また、その他の人々もいた。 

 それでも、パウロ本人をして「わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまい」と固く決心させる何かが欠けていたのだろう。

 自分に少しでも正直であろうとする信仰者ならば、いくら周囲の人々があなたとあなたの知識を誉めちぎったとしても、その「足りない何か」の存在を無視することができず、十字架に架けられたキリスト・イエスの御前に跪いて祈り求めるしかないことを知っている。

 そしてそれは一度だけの経験ではなく、この世に生きている限り、何度も何度も繰り返し導かれる信仰の原点である。

シリアのアンテオケ教会(3)

使徒14:24-28

24 ふたりはピシデヤを通ってパンフリヤに着き、 

25 ペルガでみことばを語ってから、アタリヤに下り、 

26 そこから船でアンテオケに帰った。そこは、彼らがいま成し遂げた働きのために、以前神の恵みにゆだねられて送り出された所であった。 

27 そこに着くと、教会の人々を集め、神が彼らとともにいて行なわれたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した。

28 そして、彼らはかなり長い期間を弟子たちとともに過ごした。 

 第一次伝道旅行を終え、シリアのアンテオケに戻ってきたバルナバとパウロは、いわゆる「宣教活動報告集会」を開き、そこで「神が彼らと共にいて行なわれたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこと」を報告した。これは現代において宣教師が自分を派遣したり、資金的サポートを提供している教会や団体に対して報告するのと似たようなものであろう。

 その後、二人はアンテオケに留まり、「かなり長い期間を弟子たちとともに過ごした」とある。どのくらいの期間だったかは明らかにされていないが、二人は他の兄弟姉妹と共に、その町で信仰生活を送っていた。

 そして神の祝福を受け、安定していたと思われるアンテオケ教会にも、非常に狡猾な攻撃が襲ってきた。むしろアンテオケの集会が主の祝福を受けていたからこそ、以下のような恵みの根底を覆すような攻撃があったのだろう。

使徒15:1-2

1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていた。 

2 そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。 

 これは後に使徒パウロが『ガラテヤ人への手紙』や『ローマ人への手紙』などで厳格に論駁している、「信仰のみによる義認」を脅かす教えであった。つまりユダヤ地方からアンテオケにやってきたユダヤ人たちは、「イエス・キリストを信じるだけでは救われない。信じた後にモーセの律法を守り、割礼を受けなければ救いは全うされない」と主張していたのである。

 これらの「ユダヤから下ってきたある人々」(1節)のアイデンティティの詳細は明らかではない。ユダヤ教を信じていた人々だったか、それとも御子イエスをメシアと受け入れていたユダヤ人だったのか明確ではないが、エルサレム会議においても同じ主張をした人々がいたことが書かれているので、エルサレムやユダヤ地方の信徒たちの間でも、福音の理解において混乱があったようである。

使徒15:5

しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」と言った。 

 使徒パウロは、このように割礼を強いようとしていた「パリサイ派の者で信者になった人々」を非常に厳しいトーンで「忍び込んできたにせ兄弟ら」と見做していた。

ガラテヤ2:4

それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので――彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった。 

 結局、このエルサレム会議によって「恵みの福音」を基にした議決がなされ、当時の全教会でその指針が共有されることとなった。

使徒15:22-35

22 そこで、使徒たちや長老たちは、全教会と協議した末、お互の中から人々を選んで、パウロやバルナバと共に、アンテオケに派遣することに決めた。選ばれたのは、バルサバというユダとシラスとであったが、いずれも兄弟たちの間で重んじられていた人たちであった。 

23 この人たちに託された書面はこうである。「あなたがたの兄弟である使徒および長老たちから、アンテオケ、シリヤ、キリキヤにいる異邦人の兄弟がたに、あいさつを送る。 

24 こちらから行ったある者たちが、わたしたちからの指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ、あなたがたの心を乱したと伝え聞いた。 

25 そこで、わたしたちは人々を選んで、愛するバルナバおよびパウロと共に、あなたがたのもとに派遣することに、衆議一決した。 

26 このふたりは、われらの主イエス・キリストの名のために、その命を投げ出した人々であるが、 

27 彼らと共に、ユダとシラスとを派遣する次第である。この人たちは、あなたがたに、同じ趣旨のことを、口頭でも伝えるであろう。

28 すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。 

29 それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。以上」。 

30 さて、一行は人々に見送られて、アンテオケに下って行き、会衆を集めて、その書面を手渡した。 

31 人々はそれを読んで、その勧めの言葉をよろこんだ。 

32 ユダとシラスとは共に預言者であったので、多くの言葉をもって兄弟たちを励まし、また力づけた。

33 ふたりは、しばらくの時を、そこで過ごした後、兄弟たちから、旅の平安を祈られて、見送りを受け、自分らを派遣した人々のところに帰って行った。〔 

34 しかし、シラスだけは、引きつづきとどまることにした。〕 

35 パウロとバルナバとはアンテオケに滞在をつづけて、ほかの多くの人たちと共に、主の言葉を教えかつ宣べ伝えた。 

(以下、エルサレム会議の決定事項の関連記事)

 最後の35節を読むと、アンテオケの教会は問題の芽を摘んだことで、安泰になったとも読めるが、実際にはこのパウロとバルナバがアンテオケに滞在している間、つまり使徒パウロがバルナバと決別して第二次宣教旅行に出発するまでの期間に、さらに内側から指導者的立場の使徒たちに対するサタンの狡猾な攻撃があったのである。

ガラテヤ2:11-14

11 ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。 

12 というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。 

13 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。 

14 彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。 

 何とエルサレム会議において実に力強い弁証をした使徒ペテロだけでなく、アンテオケ教会のユダヤ人クリスチャン、さらにバルナバまでもが、強烈な偽善の誘惑に陥りそうになっていたのである。

 「わたしは衆人の面前でケパに言った」 これは「全員の前で」というニュアンスである。つまりアンテオケ教会に集まっていた兄弟姉妹の前で、使徒パウロが十二使徒の一人ペテロを戒めたという意味である。これはパウロの対応は絶対に必要だったことだが、状況の深刻さを十分に把握できていなかった信徒たちにとっては、緊張をもたらすものだったことが想像できる。

  その後、パウロはバルナバに第一次宣教旅行の時に開拓した教会を訪問する提案をするが、「マルコというヨハネ」(福音書記者マルコ)のことで二人の意見が分かれ、別行動をとることになる。

使徒15:35-41

35 パウロとバルナバとはアンテオケに滞在をつづけて、ほかの多くの人たちと共に、主の言葉を教えかつ宣べ伝えた。

36 幾日かの後、パウロはバルナバに言った、「さあ、前に主の言葉を伝えたすべての町々にいる兄弟たちを、また訪問して、みんながどうしているかを見てこようではないか」。

37 そこで、バルナバはマルコというヨハネも一緒に連れて行くつもりでいた。

38 しかし、パウロは、前にパンフリヤで一行から離れて、働きを共にしなかったような者は、連れて行かないがよいと考えた。

39 こうして激論が起り、その結果ふたりは互に別れ別れになり、バルナバはマルコを連れてクプロに渡って行き、

40 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。

41 そしてパウロは、シリヤ、キリキヤの地方をとおって、諸教会を力づけた。 

 『使徒行伝』筆者のルカが、「激論が起こり」と表現していることが生々しい。彼ら二人を第一次宣教旅行に送り出したアンテオケ教会が困惑し、様々な意見に分かれたのは当然だろう。そして「パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した」とあるのは、使徒パウロに同行していたルカが、この件に関するパウロの選択に同意していたことを暗示しているのかもしれない。

 いずれにせよ、平和の神はこのような問題にも介入し、晩年のパウロにとってマルコが「同労者」であり、「努めに役に立つ」存在として、信頼関係を築き上げるまでに導かれたのである。

ピレモン1:24

わたしの同労者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからも、よろしく。 

Ⅱテモテ4:11

ただルカだけが、わたしのもとにいる。マルコを連れて、一緒にきなさい。彼はわたしの務のために役に立つから。 

 このようにアンテオケの教会は、実に霊的で素晴らしい実を結んでいたが、それは誘惑や分裂の問題がなかったことを意味してはいない。むしろ、そのような難しい数々の問題を通して、主なる神の真実と愛と義が、私達に対しても証しされている。