わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。
ヨハネ16:29-33
29 弟子たちは言った、「今はあからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません。
30 あなたはすべてのことをご存じであり、だれもあなたにお尋ねする必要のないことが、今わかりました。このことによって、わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」。
31 イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。
32 見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。
33 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
弟子たちの告白 「わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」と、それに対する御子の啓示「あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう」は、強烈なコントラストをなしている。「神から来られた方」が信じた者たちによって「ひとりだけに残される」。
しかしこれは信仰者の日常の生活において繰り返し起きていることではないだろうか。信仰者の心の中には、神から授けられた聖霊が宿っている。しかしもし私たちが正直ならば、私たちの多くの言動においてその聖霊は「ひとりだけ残されている」状態であると気付くのではないだろうか。一日の中の多くの選択において、聖霊の導きは忘れられ、たとえ祈ったとしても明確な光と回答を得るまで決して事を始めないという決意ある祈りは稀である。
むしろ多くの場合、私たちの祈りは自分たちの選択に対して神の祝福を求めるものであり、「これとあれを今日中に終わらさなければならないので助けてください」「今日の大事な仕事がありますので、どうぞ祝福してください」といった感じである。
しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。
これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。
あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。
私たちの祈りを「多くのリクエストのリストアップ」から解放し、恵みによって三位一体の神の交わりのうちに置かれていることに賛美を捧げよう。その交わりに留まることで、私たちの孤独や苦悩は、いつの間にか平安と勇気に変わっていくのである。