教皇のボローニャ訪問
明日10月1日の日曜日に、私が住んでいる街にカトリック教会のフランチェスコ教皇が訪問するらしい。教皇一団が移動のために通過する道路は朝9時から夜21時まで封鎖されるのだが、その経路に私の住んでいる通りがあり、どうやら車で外には出れないかもしれない。路上にあるごみ収集の箱や自動車、自転車なども夜中に撤去されるという。
(沿道から入ったところにさえ、このような「歓迎のしるし」が飾られていた。しかし「SALVE REGINA」は、「女王万歳」という感じで、マリアを「天の女王」として讃える表現である。窓に置かれた像といい、カトリック信仰の現実がこのようなところに顕れている。)
世界的規模の組織の最高責任者の安全ためとして考えるなら、然るべき措置であるだろう。ただその組織の教義がその人物を「地上におけるキリストの代理人」としている以上、新約聖書の中で啓示されている御子イエス・キリストとの比較はあって然るべきものではないだろうか。
御子イエスは地上の生涯において、常に身の危険に晒されながらも警察や軍隊の警護を同伴していなかった。むしろゲツセマネの園において、群衆(一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たち)は剣と棒とを持って御子を捕らえ、それを見た弟子たちは御子を残して一同逃げ隠れたほどであった。
マルコ14:43-50
43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが進みよってきた。また祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。
44 イエスを裏切る者は、あらかじめ彼らに合図をしておいた、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引ひっぱって行け」。
45 彼は来るとすぐ、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
46 人々はイエスに手をかけてつかまえた。
47 すると、イエスのそばに立っていた者のひとりが、剣を抜いて大祭司の僕に切りかかり、その片耳を切り落した。
48 イエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。
49 わたしは毎日あなたがたと一緒に宮にいて教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。しかし聖書の言葉は成就されねばならない」。
50 弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。
確かに最後にエルサレムの街に入った時、民衆は「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」と喜んで叫んでいたものの、その様相は「神の御子」「イスラエルの王」「世の救い主メシア」としてはとても謙遜なものだった。
マタイ21:1-11
1 さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、
2 「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。
3 もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。
4 こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。
5 すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。
6 弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、
7 ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
8 群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。
9 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
10 イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。
11 そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。
3年の歳月にわたって御子を師と崇め、従ってきた弟子たちさえも、実際のところその御子の謙虚さが何を意味しているのか理解していなかった。
ヨハネ12:12-16
12 その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、
13 しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」。
14 イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは
15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる」と書いてあるとおりであった。
16 弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い起した。
何よりもその群衆たちは数日後、ローマ総督ピラトの前で同じ御子に対して何度も「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」と叫ぶことになる。
ヨハネ19:14-15
14 その日は過越の準備の日であって、時は昼の十二時ころであった。ピラトはユダヤ人らに言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。
15 すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。
そして死から復活した御子がこの世にご自身を顕わした時、エルサレムの神殿の上に立って眩いばかり光を放ち、天空に轟き渡る声で勝利を宣言することはなかった。御子の栄光を考えれば、それ以上のあらゆる超自然的現象が伴っていても決して度を過ぎることはなかっただろう。
しかし現実には、葬られていた墓の前で泣き崩れていたマグダラのマリアが「墓園の番人」だと勘違いするほどごく「普通のあり様」であった。
ヨハネ20:11-15
11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
その後、権力者たちに怯え、身を隠していた弟子たちにも御姿を顕わしたのだが、その復活の姿には磔刑の釘と槍の傷痕があった。
ヨハネ20:19-23
19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。
神の国やその祝福の顕れは、一人の人間の物理的移動によるものではなく、御子を信じる者たちが霊と真理をもって父なる神に礼拝を捧げるときに成就するものである。
ルカ17:20-21
20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
ヨハネ4:21-24
21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
22 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。
23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
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