an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「色」を失うことで顕れるもの

f:id:eastwindow18:20170913093212j:plain

f:id:eastwindow18:20170914153951j:plain

 先日、読者の方から日本の彼岸花(別名:曼殊沙華、イタリア語名は【Giglio ragno rosso】で直訳すると【赤蜘蛛ユリ】である)の写真が一枚送られてきた。久しぶりに見るその鮮やかな色に感動していたのだが、同じ方から次の日に同一の写真のモノクロームのバージョンが送られてきて、まるでベネツィアのガラス細工のような透明感のある美しさに心を奪われてしまった。

 全く同じ花の写真でも、モノクロームの場合だとよりその繊細な造形が際立つように思える。色彩という支配的な要素を故意に取り除くことによって、色彩の強さに隠されていた異なる様相が前面に出てくるのである。

 これは興味深い真理を表している。信仰者は、神の永遠の計画の中にある自身の人生を十分に把握していない。言い換えるならば、主なる神が私たちの人生を通して具体的に成し遂げようとしていることの全容を知らないし、部分的に知っていたとしても、その意味を正確には理解していないことが多いのではないだろうか。

 そのゆえか、主なる神は時に私たちの人生から私たち自身が美しいと思っている「色」を敢えて取り除く。それは愛する人との突然の離別であったり、不慮の事故や病気、失業、損失、または自身の失敗や罪などを通しておきる。

  あるいは「何も起きないこと」いや「何も起きないように取り繕うこと」がゆっくりの私たちの人生から「色」を取り去ることもある。いずれにせよ、気付くと私たちの人生は生き生きとした色を失い、霧の中のようにモノトーンな世界の中に沈んでいたりする。

 しかし私たちの認識によれば「色を失った状態」でも、全てをご存じである主なる神の観点からすれば、それまで覆われしまっていた何か特殊な聖霊の働きをこの世に示すプロセスなのかもしれない。

 実際、永遠に変わらないものを覆い続けている一過性のものは、やがてその輝きを失い、色を失っていく。しかし永遠に変わらぬものは、静かにいのちの光を放ち続けるのである。

箴言31:30(新改訳)

麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。

Ⅱコリント4:18

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。 

Ⅰヨハネ2:15-17

15 世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。

16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。

17 世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。