an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

御子イエスの喜び

ヨハネ16:20-22

20  よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。

21 女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。

22 このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。

 自分たちの師が恥辱的な刑によって裁かれるという、受け入れることは勿論、想像することもできない状況が近づいているのを肌で感じ、言い様のない不安に陥っていた弟子たちの心を、誰も奪い去ることのできない喜びに満たすことができたのは、御子の復活だけであった。

 そのご自身の復活に関する御子の表現は非常に興味深い。

しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。

 「あなたがたは再び私と会うであろう」とは言わなかった。主語はあくまで御子である。「御子が」「弟子たちと」「再び会う」と約束しているのである。

(KJV)

And ye now therefore have sorrow: but I will see you again, and your heart shall rejoice, and your joy no man taketh from you. 

 これは私たち信仰者が心に感じる喜びが、「神の絶対的主権」や「神の一方的恵み」そして「神の意志」に根差していることを意味している。つまりここで言う「喜び」は、私たちの気質や気性によって派生するような一時的な感情というよりは、より深い、御子の復活の霊に基づくものなのである。

 実際、信仰者のうちに宿る喜びは、「御子の喜び」であると御子自身が啓示している。

ヨハネ15:11

わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。 

 そしてそれは「御霊の実」、つまり御子を死からよみがえらせた聖霊から満ち溢れ、生れ出てくるものである。(この「御子の喜びが宿り、信仰者の心が喜びで満ち溢れる」という真理を、聖霊の満たしと関連づけることができる。)

ガラテヤ5:22

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 

  人為的な方法を用いて、聴衆の心を高揚させ、それを「神の臨在による喜び」だとする礼拝も少なくない。参加者の心を引き上げようという動機によるものなのかもしれないが、そのような人為的な方法や心理操作から生れてくる一時的な感情は、皮肉なことに(そして恐ろしいことに)より深い霊的憂鬱をもたらすことは、多くの信仰者が実体験していることではないだろうか。

 このような点においても、私たちは立ち止まり、神の恵みを再確認する必要があると思う。