an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

預言者イザヤは神殿の中でイエスの栄光を見た

ヨハネ12:20-50

20 祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。

21 彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。

22 ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた。

23  すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。

24 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

25 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。

26 もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。

27 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。

28 父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。

29 すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使が彼に話しかけたのだ」と言った。

30 イエスは答えて言われた、「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである。

31 今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。

32 そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。

33 イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである。

34 すると群衆はイエスにむかって言った、「わたしたちは律法によって、キリストはいつまでも生きておいでになるのだ、と聞いていました。それだのに、どうして人の子は上げられねばならないと、言われるのですか。その人の子とは、だれのことですか」。

35 そこでイエスは彼らに言われた、「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。

36 光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」。イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった。

37 このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。

38 それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。

39 こういうわけで、彼らは信じることができなかった。イザヤはまた、こうも言った、

40 「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。

41 イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである。

42 しかし、役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。

43 彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。

44 イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、

45 また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。

46 わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。

47 たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。

48 わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。

49 わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。

50 わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」。

 イエス・キリストが行っていた多くの奇蹟を目にしながらも信じようとしなかった群衆は、天からの声を聞いても、その不信仰な心を捨てることはなかった。

このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。

 そのような不信仰に対して、福音書記者のヨハネはイザヤ書の預言を二つ引用し、群衆の反応が決して想定外の反応ではなく、あくまで預言の成就であることを説明している。

それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。

こういうわけで、彼らは信じることができなかった。

 ヨハネはLXX訳(旧約聖書のギリシャ語訳)からイザヤ53:1を引用し、御子に関する不信仰が預言の成就であるとしている。使徒パウロも同じ預言を引用し、福音に対する人々の不信仰に適用している。

ローマ10:16

しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。 

 このイザヤ53章は、メシアの苦難に関してまるで目撃したかのように預言されている箇所であることは、とても意味深い。(預言者イザヤは、紀元前8世紀の人である!)

 さらにヨハネはイザヤ書からもう一箇所、預言を引用している。

イザヤはまた、こうも言った、

「神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」。

イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである。

 こちらもヨハネはイザヤ6:10のLXX訳から引用している。重要なのは、ヨハネが提示している理由「イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである」の文脈である。預言者イザヤはエルサレムの神殿の中で王座に座している主(adonai)が見た時、はっきりと「わたしの目が万軍の主なる王を見た」と告白しているのだが、使徒ヨハネはそれを「イエスの栄光を見た」と説明しているからである。

イザヤ6:1-10

1 ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、

その衣のすそが神殿に満ちているのを見た

2 その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、

3 互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。

4 その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。

5 その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。

6 この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、

7 わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。

8 わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。

9 主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。

10 あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。 

 これは使徒ヨハネがメシア、そして主として従っていたイエスが、預言者イザヤが神殿の中で見た「万軍の主(原文:YHWH)なる王」であると信じていたことを明らかに示している。

 ちなみにLXX訳においては、日本語聖書において「主」と和訳されている言葉(1、3、5、8節)は、いずれも「κύριος / kurios」である。

 この箇所はイエス・キリストの神性を示す論拠として、記憶しておくべきものである。

 

追記(2017/9/5):

 イザヤ6:9-10において、「主は言われた」と書かれている。

9 主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。

10 あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」

 つまり預言者イザヤは神殿において主イエス(受肉以前の御子)の栄光を見、そして主イエスが語る声を聞き、それを書き記したのだが、使徒パウロは同じエピソードを「聖霊が預言者イザヤを通して語った」と表現している。

使徒28:24-27(新改訳)

24 ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。

25 こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの先祖に語られたことは、まさにそのとおりでした。

26 『この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。

27 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』 

 勿論、これは矛盾なのではなく、幻と啓示を直接個人的に受けた預言者イザヤの観点と、そのエピソードを聖霊の導きによって解き明かしていた使徒パウロの観点の違いであり、霊的解釈によれば三位一体の根拠でもある。