an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

睡眠に関する考察: 生活の中の「十字架の死」と「復活」

 よくよく考えてみると、人が眠っている時はとても奇妙な状態にいると思う。生命を維持するための基本的な機能はそのまま働き続けているが、私たちの意識は外界から遮断され、意志も休止状態になる。つまり心臓は体中に血液を送り続け、皮膚は体温を調節し続け、呼吸器官は働き続けているが、私たちの意識はほぼ完全に休止するのである。

 睡眠はまた抵抗し難い「肉体の要求」でもあり、人は眠ることなくして生きてはいけない。実際に私たちは人生の約四分の一の時間を睡眠に費やすのである。たとえ寝る間を惜しんで働いても、遅かれ早かれ睡眠時間を体が必要とする分だけとらなければ、健康を害することになる。

 また眠りにつく時も、私たちは横になってリラックスし、電気を消したりしてその準備をするが、いざ「スイッチを切る」のは、私たちの意志とは関係なく、体が「シャット・ダウン」するのである。

 そして次に目が覚める保証は誰ももっていない。目覚ましのアラームをセットしたりするが、それはただ習慣によってアラームの音を睡眠中の意識が認識し、目を覚ますことができると「信じている」だけで、実際に目を覚ますことができるかは誰もコントロールできないのである。

 そのような要素を考慮すると、信仰者が就寝前に一日を振り返り、祈りの中で主なる神に悔い改め、感謝するだけでなく、眠っている間に地上の時を終え、御前に立つ可能性を考えて、「御子の尊き血によって備えさせてください」と祈ることは重要であると思う。

 またそれと並んで、もし朝になって目を覚ますことができたなら、その瞬間を「復活による新しいいのちの始まり」と見なし、感謝の祈りと共にその日一日の聖霊の働きを期待し、導きを求めるのは健全な習慣だと思う。つまり、御子の十字架の死と共に眠りにつき、御子の復活と共に新しい一日を始めるのである。

哀歌3:22-25

22 主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。

23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。

24 わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。

25 主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。

26 主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。 

詩篇30:3-5

3 主よ、あなたはわたしの魂を陰府からひきあげ、墓に下る者のうちから、わたしを生き返らせてくださいました。

4 主の聖徒よ、主をほめうたい、その聖なるみ名に感謝せよ。

5 その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る

イザヤ33:2

主よ、われわれをお恵みください、われわれはあなたを待ち望む。朝ごとに、われわれの腕となり、悩みの時に、救となってください。 

 主イエス・キリストの復活のいのちは、早朝に顕れた。