an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

私たちの前に置かれている競走

へブル11:39-40;12:1-3(新改訳)

39 さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。

40 神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。

1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。 

 「私たちの前に置かれている競走」

 「競走」と和訳されている【ἀγών / agōn】は、新約聖書の他の箇所では、「苦闘」とか「戦い」と訳されている。

ピリピ1:30

あなたがたは、さきにわたしについて見、今またわたしについて聞いているのと同じ苦闘を、続けているのである。

コロサイ2:1

わたしが、あなたがたとラオデキヤにいる人たちのため、また、直接にはまだ会ったことのない人々のために、どんなに苦闘しているか、わかってもらいたい。

Ⅰテサロニケ2:2

それどころか、あなたがたが知っているように、わたしたちは、先にピリピで苦しめられ、はずかしめられたにもかかわらず、わたしたちの神に勇気を与えられて、激しい苦闘のうちに神の福音をあなたがたに語ったのである。

Ⅰテモテ6:12

信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。

Ⅱテモテ4:7

わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。

 「走る」という動詞が同じ文で使われているから、「競走」という訳が的確だろう。しかし「競走」と言っても、一世紀においても様々なタイプがあった。へブル人への手紙の筆者は当時のマラソンのようなものを思い浮かべていたのだろうか。

 いずれにせよ、筆者の言葉自体が、その「競走」の霊的特徴を示している。

イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。

 その「競走」は、「はずかしめ」や「罪人たちの反抗」を通り、「十字架」を通過しなければならなかった御子の道に似た、「十字架の行程」なのである。それは、人々の注目と歓声の中、華やかに走り抜ける短距離走というよりは、多くのアップダウンと障害物を乗り越えなければならないクロスカントリーのようなイメージに近いであろう。周りで応援する人々もいない、でこぼこのコース。泥に足を滑らせ、転んでしまう危険さえある。

 しかしその競走の行程を進む者の目の前には、聖霊の助けにより、御子イエスがおられるのである。そして弱気になったり、力尽きそうになる私たちを絶えず励ましてくださるのだ。「あきらめるな、大丈夫だ。私は最後まであなたと共にいるから」と。

 それと同時に、過去の多くの信仰者が、私たちがゴールに辿り着き、同じ「朽ちない冠」「義の冠」を受け取るのを今か今かと待ちわびている(「彼らが私たちと別に全うされるということはなかった」とまで書いてある!)のである。

Ⅱテモテ4:7-8

7 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。

8 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。 

 

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