「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」
ルカ23:46
そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、
「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。
こう言ってついに息を引きとられた。
見るに堪えないほど残酷でおぞましい様相のうちに、御子イエスの御父なる神に対する最も純粋な信頼が隠されている。
人間の尊厳は完全に剝ぎ取られ、鞭打たれ、血と冒涜で覆われていた。しかしそこには御子の澄み切った信仰があった。
その信仰は、聖書に書き残された神のしもべたちの信仰にも閃光のように現われていたものである。神の命令に従い、モリヤ山の上で唯一の跡取りイサクに刀を振り下ろそうとした寡黙なアブラハムに、壮絶な苦難の中でも神の義認を待ち望んだヨブのうちに、そして王の怒りも恐れず、奇跡的な解放さえも求めなかったダニエルの三人の友らにも現われていた。
ヨブ13:15(新改訳)
見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう。
ヨブ19:25-27
25 わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。
26 わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。
27 しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。
ダニエル3:16-18
16 シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。
17 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。
18 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。
これらの僕らの信仰を閃光に譬えるなら、御子のそれは永遠の光を放っていると言える。それは人間の神に対する信仰という以上に、幼子の父に対する全幅の信頼である。
「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。
御子はそれを暗闇と呪い、罵りと激痛の中で示したのである。
そして御子イエスを信じる者の心には、同じ御霊が与えられている。
ガラテヤ4:4-6
4 しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。
5 それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。
6 このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。
その御霊によって、地上における様々な苦難や失望や痛みや孤独(勿論、それらは御子が味わった苦難と比較することはできないが)の中にあっても、不思議な平安と信頼感が心の中を支配するのである。
詩篇131:1-3
1 ダビデがよんだ都もうでの歌 主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事とくすしきわざとに関係いたしません。
2 かえって、乳離れしたみどりごが、その母のふところに安らかにあるように、わたしはわが魂を静め、かつ安らかにしました。わが魂は乳離れしたみどりごのように、安らかです。
3 イスラエルよ、今からとこしえに主によって望みをいだけ。
ローマ8:35-39
35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
36 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。
37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。
主よ、どうか今この瞬間、苦しみの中にいる魂に十字架に架けられたキリストを啓示してください。アーメン。
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