良心の呵責と隠蔽、そして罪からの解放
自分の悪事の「証拠」を消しても罪にならないって本当? | ネタ・おもしろ・エンタメ | 大学生活 | マイナビ 学生の窓口から抜粋
ところが、この法律は「他人の刑事事件」に関する証拠と明記されている。つまりは自分の悪事の証拠を隠しても、証拠隠滅罪には問われないのだ。
他人の悪事は対象となるのに、自分は除外されるのはなぜか? これは、悪事をはたらけば隠そうとするのが当たり前で、「人間ってそういうものだよねぇ」的な解釈からである。専門的には「期待可能性が乏しい」という言葉で表され、
・悪いことを未然に思いとどまる
・法に従って行動する
を「期待」できるか?の意味だ。誰かが違法なことをしそうなら「やめようよ」と注意できるし、過ちを犯したあとに証拠を隠せば「共犯」呼ばわりされて当然だが、「悪いことをした自分」を「自分」が注意できるはずもない。自力で正せる可能性が「乏しい」状態なので、証拠を隠すのも想定の範囲内だからだ。
「そこまで期待していないから」罪に問わない、の意味なので、ある意味で見捨てられたと解釈すべきだろう。
つまり法律は、「罪の自覚」があるところには当然「証拠隠蔽」があり得る、と捉えていることを意味する。
これはアダムとエバがエデンの園で罪を犯した直後にとった行動を証明していないだろうか。
創世記3:6-8
6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
彼らの罪意識は、裸を覆い隠し、神の臨在の気配に身を隠させた。当然、もし禁じられていた実を食べていなかったら、裸であることを恥と思わず、それを隠す必要もなく、また自分たちの創造主なる神から隠れようとも思わなかったはずである。
犯罪の証拠を隠蔽した本人は、自分が隠蔽したことを忘れはしないし、隠蔽したこと自体、良心の呵責があることを示しているので、結局、隠蔽という行為は、自分の足に重りがついた鎖をつなぐようなものだと言える。
箴言28:13
その罪を隠す者は栄えることがない、
言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける。
ダビデ王は、自分の部下ウリヤの妻バテシバとの姦通の関係を隠すため、ウリヤを殺す命令を下した。目的を果たし、思い通りバテシバを手に入れたダビデの心は平安だったろうか。彼自身、その時の心の状態を詩篇の中で告白している。
詩篇32:3-4
3 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。
4 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによってかれるように、かれ果てた。〔セラ
しかしそのような魂の激しい苦悩は、すべてを知っておられた神に対する真摯な罪の告白によって癒されたことが記されている。
詩篇32:5
わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。
わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ
恵みの福音は、主イエス・キリストの十字架の死によって、悔い改める者があらゆる罪から清められ、赦しを受けることができることが約束されている。
Ⅰヨハネ1:5-10
5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。
6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。
7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。
生活環境を一新し、過去の人間関係を切り捨て、自分のことを全く知らない人々と新しい人生のページを綴る選択肢でも、結局、いつかは自分の罪の問題と正面から向き合わなくてはならない時が必ず来る。その時、ダビデのように告白できるものは幸いである。
詩篇32:1-2 ダビデのマスキールの歌
1 そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。
2 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。
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