an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた

イザヤ53:5-6(新改訳)

5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。 

 イザヤ書の52:13から全53章の部分は、紀元前8世紀頃に記されたにもかかわらず、『第五の福音書』と呼ばれるほど主イエスの苦難の鮮明に記述している。特にその贖罪論的啓示は、御子イエスの十字架の贖罪を否定する意見に対して、静かに、しかし力強く反駁している。

 本文自身が啓示しているように、主なる神は人間の知恵では思いにも及ばない、信じられないような計画を永遠の時から備え、御子イエスによって実現されたのである。

イザヤ52:15

彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。

イザヤ53:1a 

だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。

イザヤ53:8b

その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。

 読者の方々の中で「旧約聖書は難しくてほどんど読んでいない」という人は、是非このイザヤの預言を繰り返し読んでほしい。祈りの思いで読めば、エチオピアの宦官のために働きかけたように、御霊自身が主イエス・キリストの証しを示してくださるだろう。

使徒8:26-35

26 しかし、主の使がピリポにむかって言った、「立って南方に行き、エルサレムからガザへ下る道に出なさい」(このガザは、今は荒れはてている)。

27 そこで、彼は立って出かけた。すると、ちょうど、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財宝全部を管理していた宦官であるエチオピヤ人が、礼拝のためエルサレムに上り、

28 その帰途についていたところであった。彼は自分の馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。

29 御霊がピリポに「進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい」と言った。

30 そこでピリポが駆けて行くと、預言者イザヤの書を読んでいるその人の声が聞えたので、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と尋ねた。

31 彼は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えた。そして、馬車に乗って一緒にすわるようにと、ピリポにすすめた。

32 彼が読んでいた聖書の箇所は、これであった、「彼は、ほふり場に引かれて行く羊のように、また、黙々として、毛を刈る者の前に立つ小羊のように、口を開かない。

33 彼は、いやしめられて、そのさばきも行われなかった。だれが、彼の子孫のことを語ることができようか、彼の命が地上から取り去られているからには」。

34 宦官はピリポにむかって言った、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」。

35 そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。 

 伝道者ピリポは、もし話そうと思えば、サマリアの町々で如何に主が大いなる力で働き、悪霊を追い出したり、癒しを行ったり、 多くの人々を救いに導いたかを証しすることもできたろう。しかしピリポは聖霊の導きによって実直に「イエスを告げ知らせた」(岩波訳)のである。

 今回この聖句を読んでいて特に心を打たれたのは、「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」という箇所である。口語訳は以下のように訳している。

主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

 新改訳では「すべて」が「咎」に係っているが、口語訳では「者」に係っている。いずれにせよ、御子の贖罪の包括性を考えれば、相補的な訳だろう。三位一体の主なる神は、御子を人として遣わし、「すべての者」の「すべての咎」を、御子の上に置き、彼にその責任を負わせたのである。

 何という峻厳な啓示であろうか。私が自分で「罪・咎・過ち・落ち度(原語はこのように様々な意味をもつ)」であると渋々認め、押し迫られて神の前で告白した罪だけを、御子の上に背負わせたのではない。私が取るに足らないと思い込んでいる罪、頑なに認めようとしない罪、気付かないで犯している罪、過去だけではなく将来犯すであろう罪さえも、私がこの世に生れる前から、御子の上に負わせたのである。

 他の誰も知らない「心の地下室」の中に隠していた罪を、私自身が汗と涙を流し、苦闘しながら「地下室」から引きずり出し、必死に背負って主の御前に持っていったのではない。私たちが認めようが認めまいが、主なる神がそのすべてを十字架の御子の上に負わせたのである。

イザヤ53:10a

しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。

 私たちは自分がそれほど悪くないと思いがちだし、人の罪や落ち度を暴露するのは好むが、自分のものは隠しておきたがるものである。

 全てを知っておられる主なる神が、十字架においてすべてを御子に負わせ、その十字架によって彼を砕き、悩まさなければならなかった。その事実に心を留めるとき、少しづつ、神の目に映る罪の本質と、備えてくださった恵みの深遠さを実感しはじめるのである。