「血の戒め」と「聖餐」
ヨハネ6:48-63
48 わたしは命のパンである。
49 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。
50 しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。
51 わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。
52 そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」。
53 イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。
54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。
55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。
56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。
57 生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。
58 天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。
59 これらのことは、イエスがカペナウムの会堂で教えておられたときに言われたものである。
60 弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。
61 しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。
62 それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。
63 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
繰り返し使われている「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」という表現が、モーセの律法の知識を持っているユダヤ人たちにどれほどショッキングなものであったか、現代の日本人にはなかなか実感しがたいものである。ただ多くの弟子たちが「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」と不満を言い、主イエスのもとから去っていったことがその重大さを暗示している。
ヨハネ6:66
それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。
それはモーセの律法の中に「血を食べてはならない」という戒めが数多く書かれていたからである。
レビ17:10-16
10 イスラエルの家の者、またはあなたがたのうちに宿る寄留者のだれでも、血を食べるならば、わたしはその血を食べる人に敵して、わたしの顔を向け、これをその民のうちから断つであろう。
11 肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。
12 このゆえに、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたのうち、だれも血を食べてはならない。またあなたがたのうちに宿る寄留者も血を食べてはならない。
13 イスラエルの人々のうち、またあなたがたのうちに宿る寄留者のうち、だれでも、食べてもよい獣あるいは鳥を狩り獲た者は、その血を注ぎ出し、土でこれをおおわなければならない。
14 すべて肉の命は、その血と一つだからである。それで、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべて肉の命はその血だからである。すべて血を食べる者は断たれるであろう。
15 自然に死んだもの、または裂き殺されたものを食べる人は、国に生れた者であれ、寄留者であれ、その衣服を洗い、水に身をすすがなければならない。彼は夕まで汚れているが、その後、清くなるであろう。
16 もし、洗わず、また身をすすがないならば、彼はその罪を負わなければならない』」
ここで「肉を血と共に食べること」と、「自然に死んだ動物」「引き裂かれた動物(つまり他の動物に襲われて食い荒らされた動物)を食すること」が分別されていることは重要な意味をもつ。つまりここでいう「肉」とは、犠牲のためや食用のために人間が屠った動物の肉のことを指しているのである。
実際、「血の戒め」の最初の啓示を読めば、「人間の生存のために屠られた動物」という文脈がよく理解できる。
創世記9:1-6
1 神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。
2 地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、
3 すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。
4 しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。
5 あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。
6 人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに。
つまり人間の食用として与えられた動物の肉を血と共に食することは、「命の血を流す」行為とみなされ、犠牲になった動物の命に対する冒涜であり、報復に値すると警告されている。そして「命の代価に対する尊厳」という概念が根底にあるからこそ、動物だけでなく、人間の死まで言及されているのである。
ちなみに、エホバの証人などは、「すべて肉の命は、その血と一つだからである。それで、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべて肉の命はその血だからである。すべて血を食べる者は断たれるであろう」という箇所を、「命=血」つまり「血は(生物学的)命そのものである」と解釈し、輸血を拒否したりするが、文脈にある「血は、犠牲になった動物の死を表している」ことを考慮しないが故の誤った解釈である。
当時のユダヤ人たちも、これらの血の戒めを字義的に尊守していたので、主イエスが「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」という言葉に本当に驚き、躓いたのである。
しかしなぜ、人間的にはユダヤ人であり律法を完全に知り尽くしていた主イエス・キリストは、敢えてこのような「スキャンダラスな」表現を使ったのだろうか。「血を飲む」という言葉だけでも彼らにとっては大きなスキャンダルであるのに、敢えて「肉を食べる」と一緒に啓示しているのである!
さらに最後の晩餐の際には、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」という概念を聖餐として定め、それを守るようにユダヤ人であった弟子たちに命じているのである。
マタイ26:26-28
26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。
27 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。
28 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。
使徒パウロの言葉は、私たちの理解を助けてくれる。
Ⅰコリント11:23-28
23 わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、
24 感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。
26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。
27 だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。
28 だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。
「ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである」の「ふさわしくない」とは、一体どんな意味だろうか。「完全でなければいけない」と言っているのであろうか。もしそうならば、地上において誰一人として聖餐を受けることはできないだろう。
ここで言う「ふさわしい状態」とは、主イエスの犠牲の死に対する畏敬の念によって罪を悔い改め、感謝の心を持っているかどうかを問うているのである。しかもその御子の死は、ただの「自然死」でも「偶発的事故死」でもなかった。主イエスは私たち一人一人の罪のために身代わりとなって、私たちの代わりに律法によって「断たれた」のである。
イザヤ53:5-8
5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
「あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである」。聖餐を受けるということは、信仰者が主イエスの死を思い出し、自分の罪が神と神が与えてくださった御子の命に対する忌々しい冒涜であることを自ら認め、御子がその罪の赦しのために私たち罪びとの代わりに断たれたことを信じ、感謝と畏敬の念をもって生ける神を礼拝することである。
信仰者には、主の体と血のシンボルであるパンと葡萄酒を口にする聖餐が、長年の信仰生活において習慣化し、畏敬の念を失ってしまう危険が多々あると思う。だからこそ「血の戒め」を考察することは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」という言葉に表されている御子の犠牲の死が、神にとってどれだけ大きな意味を持つか、その理解を深めるうえで、非常に重要であると確信する。