「地上の報い」と「主から授けられる義の冠」
マタイ6:1-6
1 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
2 だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
3 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
4 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
誰でも非常に簡単に、自分自身や自分がしていることを世界に向けて発信できる時代には、「今、すぐに」受けられる「報い」に心が囚われる誘惑が強く働いている。「宣教のため」「主のため」という正当な動機が、隠された自己顕示欲に乗っ取られ利用されてしまうことは、それほど難しいことでも、また珍しいことでもない。
「ラッパを右手に持って、会堂や大通りの辻に出て行こうとする自分」を「キリストと共に十字架につけられ、葬られた」と見なし、隠れたところにおいでになる私たちの父なる神の御前に留まるには、御霊の力なしには不可能である。
キリスト者のゴールは近い。主の御手から義の冠を受ける日は遠くない。「安っぽい報い」に心が奪われないよう、主イエス・キリストを見続けよう。
ピリピ3:8-14
8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。
10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
Ⅱテモテ4:8
今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。
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