『ローマびとへの手紙』(23)「しかし今や」
ローマ3:19-24
19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。
20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。」これこそまさに「福音」、つまり「良き知らせ」である。
神は義であり、それは時間の推移によって変わることはない神の永遠の性質である。その神の義が律法と預言者、つまり旧約聖書の啓示を通して証され、御子イエス・キリストによって完全に顕れたのである。
御子の義は、律法と預言者とによって「構築され」、歴史の中で「段々形になった」のではない。天地創造以前から存在していたことが、律法と預言者とによって少しずつ証されて、そして御子の十字架の死と復活によって完全に顕れたのである。
モーセの律法を受けとったイスラエルの民が、律法の戒めを守ることができなかったので、「仕方なく解決策として備えられた」のでは断じてない。律法は、罪を犯した人間、つまりアダムとエバの堕罪以降のすべての人間が、彼ら自身では神の義も神の栄光も持っていない存在であること、そして御子の義がなければ救われない存在であることを宣告するために与えられたのである。
ヨブは律法以前の時代、おそらくイスラエルの民がエジプトに移住していた時代に生きた信仰者であった。彼は理不尽な苦しみの中、「人はどうして神の前に正しくありえようか」と嘆いたが、三人の「友人ら」に責め立てられながらも「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる」と言って、神の義が「贖う者」を通して必ず顕れることを信じた。
律法の下に生まれ、律法の下で神に仕えていた預言者ハバククは、暴虐が蔓延り、不真実な者がのさばる世を見て悩み苦しみ、神の前で義を求めた。その預言者に神は答え、「定められた時に必ず顕れる幻」について答えた。
ハバクク2:1-4
1 わたしはわたしの見張所に立ち、物見やぐらに身を置き、望み見て、彼がわたしになんと語られるかを見、またわたしの訴えについてわたし自らなんと答えたらよかろうかを見よう。
2 主はわたしに答えて言われた、「この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。
3 この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。
4 見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。
ヨブやハバククが、また旧約聖書に登場するすべての信仰者たちが遠くを見つめ、待ち望んでいた神の義が、「しかし今や」、御子イエスによって啓示されているのである。
「すべての口がふさがれ」「全世界が神の裁きに服する」 「すべての人間は神の前に義とせられない」という峻厳で容赦ない裁きの宣告が、「しかし今や」という言葉に顕れているように、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられる」という圧倒的な赦しの宣告に替えられたことに、私たちはもっともっと喜び、自分の罪を主に告白し、キリストの尊き血によって清められ、主なる神に感謝をしようではないか。