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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『ローマびとへの手紙』(22)律法による罪の自覚

ローマ3:19-20

19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。

20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。 

 「義人はいない。一人もいない」「すべての人は罪びと」「すべての口がふさがれ、全世界が神の裁きに服する」という聖書の啓示に納得できず、「自分は誰も殺したことないし、法律を犯した犯罪者でもない」と心の中に沸々と反感が湧き上がってくる読者もいるかもしれない。また「律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」という啓示に、「法律は守るためにあるのに」と反論する人もいるかもしれない。

 しかしたとい神学的・倫理的議論をしたとしても、ここで示されている真理を理解することはできないだろう。神学書の説明を読んだり、インターネットで「律法による罪の自覚」と検索するよりも、もっとリアルに理解するシンプルな方法がある。それは実際に「あなた」が神の律法を守ってみることである。

 例えば、所謂モーセの十戒の第十番目の戒め「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」を、今この瞬間から徹底的に厳守するように、一週間(実際はもっと短い期間でもいいのだが)努力してみることである。勿論、都会で生活している現代人には「他人の奴隷や牛、ロバをほしがってはいけない」と言われてもピンとこないだろう。だからシンプルに「すべて他人のものを心の中で欲しがってはいけない」とすればわかりやすい。その「すべて隣人のもの」は、文字通り、「すべて」である。そこには、他人の妻や夫という人間でもあり、物質的富や所有物であったり、他人の容姿であったり、名誉、キャリア、評判、能力、人気(FBやTwitterのフォロワー数?)という非物質的な要素も含まれている。

 そして自分が決めた期間(これは便宜上のもので、実際には神の律法が要求していることを実践することにおいて、期限や期間というものは存在しない)の中で、自分の心の中にどのような感情や思いが働くかを厳密に観察してみると、「むさぼるな」という戒めに対して「りきむ」自分や、戒めを犯してしまったときの無数の自己弁護、また他人の「むさぼり」を裁くことに対して、今まで意識しなかった時と比べて、はるかに敏感な自分を見出すであろう。

 もしくは、そのたった一つの戒めさえも、様々のことに気を捉われてすっかり忘れてしまったり、バカバカしくなって途中で投げ出す自分を知り、「神の求める人はいない」「 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」という聖書の言葉が、決して大げさなものでないことを自覚するだろう。

 そしてもしあなたが自分に正直な人間ならば、あなたが自分で前もって定めた期日が来る前に、「律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」という啓示が真理であることを告白するはずである。

 そしてその正直な告白は、キリストの十字架による罪の赦しを受けるために必要不可欠な条件である。