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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

聖書に啓示されている「聖書の目的」と「神の主権」

Ⅰペテロ1:16-21

16 わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。

17 イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

18 わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。 

19 こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。

20 聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。

21 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。 

 「聖書の預言を自分勝手に解釈する」とはどういう意味だろうか。「自分勝手」と訳されている原語「ἰδίας idias」は、「個人的な、私的な、ひとりの、分離した」という意味を持つ。神の意志によって、聖霊を通して語られたことを、その神の目的や考えとは分離した、異なる私的な目的によって解釈することである。ということは、「自分勝手な解釈」か「正当な解釈」かは、聖書自身が提示している目的を基準に判断されるべきものである。

 それでは聖書が書かれた「神の目的」とは何か。それは主イエス・キリスト自身が証ししている。

ヨハネ5:39-40

39 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。

40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。  

ルカ24:27;44

27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。

44 それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。 

 興味深い点は、使徒ペテロが『第二ペテロの手紙』と書いたときも、イエス・キリストがパリサイびとらに「この聖書は、わたしについてあかしをするものである」と言った時点においても、また復活の後に弟子たちに「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」と言った時点においても、ユダヤ教の聖書三十九巻の正典化はされていなかったという点である。

 ユダヤ教の聖書の公式な正典化は、エルサレム陥落によってヤム二ア(Yavneh ヨシュア記15:11のヤブネル)へ逃れたパリサイびとや律法学者によって一世紀末頃に決められた。f:id:eastwindow18:20151112185716g:plain

 つまり、イエスがメシアであるということを受け入れなかったユダヤ人たちによって聖書(この場合、旧約聖書三十九巻)が正典化される以前に、『モーセ五書』や『預言者の書』、『詩篇』は神の言葉としての権威をもつ「聖なる書物」として人々から認められ、シナゴーグで安息日毎に読まれ、そして何よりも、ユダヤ教徒が自分たちの宗教上の目的に従って聖書を正典化する以前に、またそれとは関係なく、聖書はイエス・キリストについて証し、彼によって信じる者が永遠の命を得るという目的を内在していたのである。

ローマ3:21-22

21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。

22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 

 これは何を意味するかというと、私たちが聖書を読み、その内容と向き合うとき、最も本質的で最優先すべきことは、「聖書の中にイエス・キリストを求め、彼を信じ、永遠の命を得る」という目的である。

 この真理は、新約聖書についても同様である。

ヨハネ20:30-31

30 イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。

31 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。

 使徒ヨハネは、その福音書に書かれているよりもはるかに多くの奇蹟をイエスは行ったが、その中から読者が「イエスは神の子キリストである」と信じるため、また、そう信じてイエスの名によって命を得る目的のために、選んで書き記したと語っているのである。「書こうと思ったらいくらでも書けたが、一番大事な目的を到達するために十分な内容を書いた」ということである。

 そしてこれは新約聖書全体にも言えることである。福音書各書や数々の書簡は、新約聖書の一部を構成するという目的のために書かれたのではない。例えば使徒パウロは、『ローマびとへの手紙』を書くときに、「この手紙は新約聖書全27書のうちの一書になるべきである」と決めて書いたのでは決してない。ただ自分がキリストから受け、各地で宣べ伝えていた「御子の福音」をローマの教会と共有する目的で書いたのである。

 そして多くの筆記者によって、多くの手紙が書かれ、多くの福音書も書かれたが、後世の教会が数ある書の中から、各書がもつ「神の目的」と統一性・一貫性をもつものを厳選して一冊の「新約聖書」としてまとめたのである。

 ある福音書は「キリストについて」霊的なことが書かれていたが「神の救いの目的」に対して適合しないから、聖霊による霊感を受けたものとは認められず、それゆえ神の言葉としての権威があるものとして受け入れられなかった。

 しかもその選択は、ある個人がPCの前でインターネットの情報をもとに、「これは偽物」などと個人的な意見に基づいた主張とは本質的に異なり、経験と知識を兼ね備えた多くの信仰者たちの認識の共有と検証と議論と、そして何よりも祈りを通して与えられたものである。

 宗教改革者マルティン・ルターは、『ヤコブの手紙』を「読む価値のない『藁の書』」と評価し、正典から除外しようとしたが、いかにルターの意見であっても彼の個人的な判断によって新約聖書の一部を為す『ヤコブの手紙』の霊感の権威を損なうことはできなかったのである。

 イエスがキリストであることを否定する人々の意志や決定、また反対にイエスがキリストであることを心から信じ、そのために命を懸けるほどの人々の意見や決定をはるかに超えて、神の意志と目的は静かにそして確実に成就する。

イザヤ55:6-11

6 あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。

7 悪しき者はその道を捨て、正らぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。

8 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。

9 天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

10 天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。

11  のように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。

 

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