an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

感謝のうちの自省

マルコ4:35-41

35 さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。

36 そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。

37 すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。

38 ところがイエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。

39 イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。

40 イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。

41 彼らは恐れおののいて、互に言った、「いったい、この方はだれだろう。風も海も従わせるとは」。 

 38節にある弟子たちが眠っていたイエスを起こして言った言葉「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」は、そのときの緊迫した状況を想像すると、すこし悠長な印象を受ける和訳ではないだろうか。ちなみに他の和訳は以下の通りである。

岩波訳「先生、私たちが滅んでしまうというのに平気なのですか」

新共同訳「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」

前田訳「先生、おぼれます。よろしいのですか」

新改訳「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」

塚本訳「先生、溺れます、構ってくださらないのですか」

文語訳「師よ、我らの亡ぶるを顧み給はぬか」

 いずれにせよ、弟子たちの言葉には、「一人だけ呑気に」寝ていた主イエスを咎めるニュアンスがあるのは理解できる。

 漁師であったペテロやアンデレ、ヤコブとヨハネが同じ舟に乗っていたにもかかわらず、主イエスを起こさなければいけなかったということは、舟に水が入ってきて本当に危機的な状態だったことを暗示している。実際、ルカによる福音者8:23の文語訳では、「舟に水滿ちんとして危かりしかば」と訳されている。

 漁師らもお手上げの状態で、高波が舟を水で満たし、必死で弟子たちがそれをかき出しているのに、主イエスは一人寝ていたのである。弟子たちが声を上げて主イエスを起こし助けを求めたのは当然だったかもしれない。

 しかし、主イエスにとってはその叫びは「不信仰」の顕れであった。

「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」

 聖書は私たちにどのような状況においても主に祈り求めることを命じている。

ピリピ4:6-7

6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 

7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 

 私たちが「ここまでは大丈夫」「これ以上はひどくならないだろう」と思い込んでいる一線を越えて、時に「高波」は私たちの人生を襲い、自分の力で何とか解決できるだろうと甘く見ていた私たちを無視して、冷酷に「私たちの舟を水で満たす」。そこで信仰者は主なる神の約束を思い出し、心から助けを叫び求め、主なる神はその私たちの声を聞いてくださる。今まで何度そのような経験をしただろうか。

 そして私たちは「嵐が静まり」、問題の解決を見て喜び、周りに興奮して証したりするが、多くの場合、主イエスが直後に静かに語りかけてくる叱責の声を、自分たちの喜びや興奮で聞き逃してしまう。「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」という自省を促す声を。

 また自分たちの祈りが聞き入れられたことばかりに意識が集中し、弟子たちが恐れおののきながら自分たちの目の前にいる方が本当はどんな方であるのか、その力と権威の前に畏敬の念によって問い直したような態度を忘れがちである。

 「嵐のうちの祈り」と共に、「感謝のうちの自省」は、いと高き主なる神の栄光のみに生きることを誓った信仰者の果たすべき義務ではないだろうか。

詩篇50:14-15

14 感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ。

15 悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。