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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『ローマびとへの手紙』(15)「為すべからざる事を自ら行っているのに、同じことを行っている他人を裁く」偽善

ローマ2:1-11

1 だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。

2 わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。

3 ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。

4 それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。

5 あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。

6 神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。

7 すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、

8 他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。

9 悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、

10 善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。

11 なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。

 第一章において、ご自身の栄光を被造物に啓示しておられる神を求めようとしない人々に対して、「弁解の余地はない」と宣告されていることに考察した。

ローマ1:18-21

18 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。

19 なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。

20 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。

21 なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。 

 しかし第二章においては、対象をより限定し、ダイレクトに言及している。使徒パウロはここで、レトリックでいう頓呼法(とんこほう)を使い、まるで法廷において裁判官を前に直接論敵に語り掛けているような口調で、「ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない」「ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか」と語っている。

 第一章の終わりで、死に価するような為すべからざる事を為す人々を列挙し、それを行うものを是認している者について言及している。

ローマ1:28-32

28 そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。 

29 すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、

30 そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、

31 無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。

32 彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている。

 しかし第二章では反対に、これらの為すべからざる事を自ら行っているにもかかわらず、同じことを行っている他人を裁く者について、まるで面と向かって話しているかのように「あなた」を使って語っている。この「あなた」のことを使徒パウロは熟知していた。なぜならそれは、回心する前に、ユダヤ教の律法のもとにパリサイびととして生きていた自分自身であったからである。

 それは後に続くパウロの言葉によってさらに明確に示されている。

ローマ2:17-23

17 もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇とし、

18 御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、 

19 20 さらに、知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じているのなら、

21 なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。

22 姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。

23 律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。 

 使徒パウロはさらに深みに降りてゆき、律法のもとに生きる者の絶望を第七章で言及している。

ローマ7:7-24

7 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。

8 しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。

9 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、

10 わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。

11 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。

12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。

13 では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。

14 わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。

15 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。

16 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。

17 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

18 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。

19 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。

20 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

21 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。

22 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、

23 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。

24 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

 信仰者がイエス・キリストの十字架を誇り、それについてばかり語ろうとするのは、他の人には与えられていない奥義を手にして得意になっているからではなく、イエスの十字架の死と復活がなければ、「為すべからざる事を自ら行っているにもかかわらず、同じことを行っている他人を裁く」偽善や、「欲している善はしないで、欲していない悪を行ってしまう」奴隷状態から、自分を救ってくれるものは何もないということを、日々嫌というほど自覚しているからに過ぎない。