an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

ほくそ笑む者がいる

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「Which religion cares the most about the homeless? どの宗教が一番、ホームレスに関してケアしているか?」

 「ナポリ的」ウィットを感じるこの写真は、一見無邪気なものに見えるが、実は深い問題を提示しているのではないだろうか。

 一人のクリスチャンがこのホームレスの男性の前を通ったことを想像してみよう。彼は、段ボールのメッセージを読み、地面にあるカテゴリー別のプラスチックの器の中のお金の量を見て、「キリスト教」よりも「無神論」の方に多くお金が入っているのに気まずさを感じ、ポケットの中にある小銭を器の中にそっと投げ入れ、口だけの笑顔をホームレスの男性を見せて、足早に去っていく。

 そのクリスチャンが通った直後に、インド人の女性が通りかかり、同じように地面にあるカテゴリー別のプラスチックの器の中のお金の量を見て、「ヒンズー教」の器がほとんど空であることに心を痛め、財布の小銭を器に中にそっと入れ、こわばった笑顔をホームレスの男性を見せて、足早に去っていく。

 こうして通りがかりの多くの人々が、それぞれ「宗教」の器に小銭を次々に入れていく。写真の男性が意味深な笑いをしているのも当然である。(カテゴリーが増えていたり、ポジションが変えられていたり、紙幣を器に入れたままにしていたり、色々「マーケティング的な工夫」が見受けられるのが面白い。)

 しかし人々がこれらのカテゴリー別に並んだプラスチック製の器にお金を入れた時、目の前にいるホームレスの男性の魂の必要を考えることはできただろうか。むしろ彼らがお金を入れている瞬間に、彼らの意識の中にあったのは、実体のないカテゴリーへの帰属意識と、他の宗教に対する自負心、そして寄付行為で埋め合わせようとする偽りの良心である。

 おそらくこのホームレスの男性は、全く無邪気な心でこのようなことをしたのだろう。しかし彼のアプローチは実に巧妙な方法で、普段は「謙虚」の後ろに隠れている信仰者の自負心を、人間が作り出したカテゴリーに対する帰属意識によって表に引きずり出し、それぞれの「信仰心」を金銭で視覚化し、比較と同調を要求しているのである。

 本質的に同じようなアプローチが、信仰者に対する議論などで利用される。一般論的で実体のないカテゴリーを使って、これまた実体のない帰属意識と自負心を刺激し、他宗教と比較という不毛な領域に信仰者を引きずりだし、「肉の領域」で言動するように誘惑する。そして、本来測り得ない「信心」を、地上的・一面的な価値基準で測り、非難の標的にする。

 それによってほくそ笑む者は一体だれであろう。

箴言4:20-27

20 わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。

21 それを、あなたの目から離さず、あなたの心のうちに守れ。

22 それは、これを得る者の命であり、またその全身を健やかにするからである。

23 油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。

24 曲った言葉をあなたから捨てさり、よこしまな談話をあなたから遠ざけよ。

25 あなたの目は、まっすぐに正面を見、あなたのまぶたはあなたの前を、まっすぐに見よ。

26 あなたの足の道に気をつけよ、そうすれば、あなたのすべての道は安全である。

27 右にも左にも迷い出てはならない、あなたの足を悪から離れさせよ。