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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

『ローマびとへの手紙』(10)彼らには弁解の余地がない

ローマ1:18-25

18 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。

19 なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。

20 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。

21 なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。

22 彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、

23 不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。

24 ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。

25 彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン。 

 1章18節から3章20節までは、「ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあること」(3:9)、そして「すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」(3:19ー20)という、全ての人間が義なる神の前で罪びとであることを啓示している。 それは、当時のギリシャ人に代表される、ユダヤ教とは無縁の異邦人だけでなく、神の律法を受けていたユダヤ人も包括する、普遍的な真理である。

 律法の中には神が人間に要求していることが明確に啓示されているが、冒頭の聖句は、被造物を通して啓示されている神の真理について言及されている。つまり「神の永遠の力と神性」が宇宙とその中に存在する被造物を通して明らかに認められる、と主張している。

 確かにこの超大な宇宙についてほんのわずかでも思索すれば、心の中に言い様のない「畏れ」の思いが湧き上がってくる。しかも、その思いを忘れさせるほど宇宙は安定している。地球がマッハ93の凄まじいスピードで太陽の周りを回っているにもかかわらず、である。

 使徒パウロがアテネの広場に集まっていた人々に語ったように、「熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせる」ほど、神を求めるひとに対して被造物は饒舌である。それはまた、神自身が私たちの心に「永遠を思う思い」を授けてくださったからである。

使徒17:27

こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。

伝道3:11

神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。 

 それにもかかわらず、人間は真の神を探し求めようとはせず、創造者の代りに被造物を拝み、自分たちの思いと手で作り上げたものを神に見立て、それらに仕えている。使徒パウロは、それを「不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義」と呼んでいる。

  • 不義をもって真理をはばんでいる人々(新改訳)
  • 不義によって真理を阻止する人間たち(岩波訳)
  • 不義によって真理の働きを妨げる人間(新共同訳)
  • 人々は真理を不義で押えています。(前田訳)
  • 人々が不道徳をもって真理を押えつけている(塚本訳)

 「阻む、阻止する、妨げる、押さえる、押さえつける」と和訳されている原語「κατέχω katechō」は、その接頭辞「KATA」でわかるように「下に置く」が直義である。つまり、人間は自分の不義を神の真理より高く持ち上げて、「上から」神の真理を押さえつけ、その働きを阻もうとしているのである。神の言葉より自分の「知恵」を高く持ち上げ、神の言葉を裁き、神の存在すら否定する。

イザヤ10:15

おのは、それを用いて切る者にむかって、自分を誇ることができようか。のこぎりは、それを動かす者にむかって、みずから高ぶることができようか。これはあたかも、むちが自分をあげる者を動かし、つえが木でない者をあげようとするのに等しい。 

イザヤ29:15-16

15 わざわいなるかな、おのが計りごとを主に深く隠す者。彼らは暗い中でわざを行い、「だれがわれわれを見るか、だれがわれわれのことを知るか」と言う。

16 あなたがたは転倒して考えている。陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。造られた物はそれを造った者について、「彼はわたしを造らなかった」と言い、形造られた物は形造った者について、「彼は知恵がない」と言うことができようか。 

イザヤ45:9

陶器が陶器師と争うように、おのれを造った者と争う者はわざわいだ。粘土は陶器師にむかって『あなたは何を造るか』と言い、あるいは『あなたの造った物には手がない』と言うだろうか。

 人間は、その創造主なる神に対する高慢の霊によって、人となった御子イエスを批判し、罵り、つばを吐きかけ、目隠しして拳で叩き、民の前で「偽預言者」「偽王」「偽メシア」として断罪し、果てには最も忌まわしい死刑であった十字架に架けて、その前で嘲った。

 人間には弁解の余地がない。

 

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