an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

「人の子の死」と「イスカリオテのユダの死」(5)ユダの後悔

マタイ27:1-11

1 夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、

2 イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した。

3 そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して

4 言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。

5 そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。

6 祭司長たちは、その銀貨を拾いあげて言った、「これは血の代価だから、宮の金庫に入れるのはよくない」。

7 そこで彼らは協議の上、外国人の墓地にするために、その金で陶器師の畑を買った。

8 そのために、この畑は今日まで血の畑と呼ばれている。

9 こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。すなわち、「彼らは、値をつけられたもの、すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、

10 主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた」。

11 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。 

 今回引用した聖句は、難解な部分を含んでいるので、数回に分けて省察してみたい。

 まず福音書におけるこの個所全体の記述の流れとイスカリオテのユダに関する記述との関係を見てみよう。

 全体の記述の流れとしては、ユダヤ議会はイエス・キリストを殺すことを決めたが、自分たちに死刑執行の権限がなく、それはローマ総督ピラトにあることを知っていたので、イエスをピラトに引き渡した、というものである。それはまた、イエスが自分自身が受ける苦難に関して語っていた預言と一致している。

マタイ20:17-19

17 さて、イエスはエルサレムへ上るとき、十二弟子をひそかに呼びよせ、その途中で彼らに言われた、

18 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、

19 そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう」。 

 マタイ27章の3節から10節までは、その中心的記述に挿入された、ユダの一連の行動に関する副次的内容である。実際にその挿入部を取ってみると、2節と11節は史実の記述として完全な連続性を持っていることが理解できる。

1 夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、

2 イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した。

11 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。 

 そして、このユダに関する挿入部のすべての内容が、ユダヤ人たちがイエス・キリストを縛ってピラトに渡した瞬間から、実際にイエスが総督の前に立った瞬間までの時間の間に起こったのではないことは明らかである。つまり、以下のようなユダの一連の行動のすべてが、イエスがピラトの前に導かれるまでの短い時間の間に行われたのではないのである。

  1. イエスが罪に定められたのを見て後悔
  2. 銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返却
  3. 「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」と告白
  4. 銀貨を聖所に投げ込み、宮から出ていく
  5. 首をつって自殺
  6. 祭司長たちは、その銀貨を拾いあげる
  7. 協議の上、外国人の墓地にするために、その金で陶器師の畑を購入

 だいたい、銀貨三十枚を返そうとしたユダに対して「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」と乱暴に答えた祭司長たちが、自分たちには役に立たなくなった内通者の自殺現場まで確認に行き、銀貨が投げ込まれた聖所までそれを回収に行き、「血に穢れた」金をどうするか議会で討議し、通常では何日もかかっていた不動産購入手続きのすべてを、イエスをピラトへ引き渡したときに行ったと考えるのは現実的に無理である。

 また「これは血の代価だから、宮の金庫に入れるのはよくない」と、イエスの死がすで起きた出来事のような言い回しをしているのも、全体の流れと矛盾する。この時点では、ユダヤ議会はイエスの死刑宣告していたが、実際には彼らには権限がなく、その刑は確定していなかった(ピラトは何度もイエスの無罪を民衆の前で宣言している)。

 つまりこの挿入部は、イエスを裏切ったユダに「」が起こったのかを短くまとめて挿入したものであって、ユダの自殺や畑の購入などが「いつ」起きたかを具体的に啓示するものではない。

 3節の「そのとき」は、ユダヤ議会がイエスに対して死刑宣告し、ピラトに引き渡そうとした時を指し、それはペテロがちょうど三回イエスを知らないと言い、裏切った自分に絶望して、外へ出て激しく泣いた記述の挿入部とほぼ一致する。

マルコ14:60-72

60 そこで大祭司が立ちあがって、まん中に進み、イエスに聞きただして言った、「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。

61 しかし、イエスは黙っていて、何もお答えにならなかった。大祭司は再び聞きただして言った、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」。

62 イエスは言われた、「わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。

63 すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「どうして、これ以上、証人の必要があろう。

64 あなたがたはこのけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか」。すると、彼らは皆、イエスを死に当るものと断定した。

65 そして、ある者はイエスにつばきをかけ、目隠しをし、こぶしでたたいて、「言いあててみよ」と言いはじめた。また下役どもはイエスを引きとって、手のひらでたたいた。

66 ペテロは下で中庭にいたが、大祭司の女中のひとりがきて、

67 ペテロが火にあたっているのを見ると、彼を見つめて、「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」と言った。

68 するとペテロはそれを打ち消して、「わたしは知らない。あなたの言うことがなんの事か、わからない」と言って、庭口の方に出て行った。

69 ところが、先の女中が彼を見て、そばに立っていた人々に、またもや「この人はあの仲間のひとりです」と言いだした。

70 ペテロは再びそれを打ち消した。しばらくして、そばに立っていた人たちがまたペテロに言った、「確かにあなたは彼らの仲間だ。あなたもガリラヤ人だから」。

71 しかし、彼は、「あなたがたの話しているその人のことは何も知らない」と言い張って、激しく誓いはじめた。 

72 するとすぐ、にわとりが二度目に鳴いた。ペテロは、「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた。

 このような状況を考慮すると、イエスのことを知らないと激しく誓ったペテロが「イエスの言葉を思い出し、そして思い返して泣き続けた」態度と、ユダの態度(イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」)を比較するのは意味深い。

 ペテロはイエスの言葉を思い出し、それをさらに思い返すことによって、自分の裏切り行為に対する悔い改めに至った。ペテロはひとりで泣き続けた。誰かにその罪を告白したわけでもない。実際、福音書はイエスが復活する時までのペテロの行動について何も書き残していない。彼はひとりでイエスの言葉と向きあい、悔い改めていたのである。

 対照的に、ユダは自分の裏切り行為に後悔し、「自分を内通者として雇った」祭司長や長老たちのところに戻り、「罪を犯しました」と告白し、裏切りの報酬として受け取った銀貨三十枚を返却しようとした。一見、行動の伴った悔い改めのようだが、実際には、彼の悔い改めはペテロのように真摯なものではなかった。ユダもペテロと同様に、裏切りをイエスによって予告されていた。しかし、ユダはペテロのように、イエスの言葉を思い返して泣き続けるような悔い改めには至らなかった。

 そして、この二人の決定的な違いは、ぺテロが悔い改めの中で神の時を待っていたのに対して、ユダは自分の力で解決しようとしたことである。そしてその解決策は、彼の裏切り行為以上に罪深かった。神の憐れみを否定し、自ら命を絶ったからである。

 ユダがもし、イエスがあらかじめ語っていた苦難の預言を信じていたら、自分がその預言の成就に加担したことに絶望すると同時に、その絶望の中にあって御子の復活という、かすかな希望に自分の運命をゆだねていただろう。ペテロがそうしたように。

 御子イエスは、神の計画に従って祭司長や長老たちがほしいままに扱うことを耐え忍んでおられた。真理に従った証が、父なる神への冒涜であると裁かれることに反論しなかった。神を全く畏れていない異邦人へ引き渡されるままにされた。天使の軍勢を呼び、祭司長や長老などを消し去ることもできただろう。しかし、彼は自分自身をすでに「十字架に架け」、自らの力で解決を求めることを否定し、すべてを父なる神の御心にゆだね、「十字架の死の道」をへりくだって進んでいた。

 対照的にイスカリオテのユダは、自分の裏切り行為の結果、まるで不測の事態が起きたかのように祭司長らの死刑宣告に対して反応し、後悔はするが、結局イエスの言葉を信じていなかったゆえに、「自ら命を絶つ道」を頑なに選択したのである。 

 イエス・キリストが苦難と復活を予告していたことは、イエスの苦難に加担した者にさえも、赦しの道が予め用意されていたことを意味する。しかし、ユダはそれをないがしろにしたのである。

 

(6)へ続く