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夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

神の本質に内在するキリストの十字架(5)

ピリピ3:8-12

8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、

9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、

11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。

12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。 

 この引用した聖句は、「復活したキリストのうちにある十字架の相」が、信仰者の在り方に根源的に影響を及ぼすことを示している。

 使徒パウロが信仰者としての人生の目的を以下のように言い表している。

  • キリストとその復活の力とを知る
  • キリストの苦難にあずかる
  • キリストの死の様と等しくなる
  • 死人のうちからの復活に達する

 キリストと共に十字架に架けられ、キリストと共に復活したと信仰告白していたパウロが、自分の人生の目的として、「キリストの苦難に与る」「キリストの死の様と等しくなる」ことを挙げているのである。これは、「神の本質にあるキリストの十字架」の真理に基づくものである。

 「繁栄の福音」の追随者は、これらの目的を「キリストの勝利に与る」「キリストの栄光の様と等しくなる」に入れ替え、しかもそれらを自己の欲望の実現のために利用する。勿論、キリストの勝利と栄光は福音の一部を構成していることは確かである。しかし、イエス・キリストはその宣教活動において、人間の地上的欲を満足させることを決して求めなかったことを忘れてはならない。むしろ彼は、父の御旨に従い、全てを捨てて十字架の道を選ばれた。

 使徒パウロがが上述の言葉のあとで、以下のように語っている。

ピリピ3:15-19

15 だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。

16 ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。

17 兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。

18 わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。

19 彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。

 自己の地上的実現のためにキリストの恵みを「利用する」あり方を、使徒パウロは「キリストの十字架に敵対して歩いている者」としている。

 反対に、「神の本質にあるキリストの十字架の真理」の啓示を受け、その光の中に歩む者は、成熟した全き者になることを目指し、苦難や試練の中にあっても生けるキリストを見出すのである。

 

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