先日のコメント欄で聖書に関するコメントを受けたが、そのテーマについて少し考えているうちに示された内容をまとめてみた。
まず新約聖書を構成する福音書や手紙についてである。所謂プロテスタントの信仰においては、新約聖書が二十七の書によって構成されている考える。これらの二十七の書は、それぞれ独立した書や手紙という形式をとっており、明示されていない場合も含めて、複数の信仰者がその執筆した。
例えば『ルカによる福音書』と『使徒行伝』は、アンテオケの医師ルカによって執筆されたと言われている。それぞれの書の冒頭の部分を読むと、執筆者の「動機と目的」、そして「書の内容の本質」と「書の対象」が明確にされている。
ルカ1:1-4
1 わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、
2 御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、
3 テオピロ閣下よ、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、ここに、それを順序正しく書きつづって、閣下に献じることにしました。
4 すでにお聞きになっている事が確実であることを、これによって十分に知っていただきたいためであります。
使徒1:1-2
1 テオピロよ、わたしは先に第一巻を著わして、イエスが行い、また教えはじめてから、
2 お選びになった使徒たちに、聖霊によって命じたのち、天に上げられた日までのことを、ことごとくしるした。
つまりルカは福音書を書き記すにあたって、イエス・キリストが行い、教えたことを直接見聞きした使徒達や弟子達が語り伝えていたことを記録した数々の書があることを知っていた。
しかし、ルカはそれらの書をそのまま書き写してローマの役人だったと思われるテロピロに提出するのではなく、
- 入念な調査による知識(「すべての事を初めから詳しく調べています」)を基に、
- ルカなりのやり方で(「わたしも」)
- 「順序正しく書きつづる」
ことにしたのである。
そしてそれは、
- テオピロがすでに受けていた福音の内容が確かなものであるということ(「すでにお聞きになっている事が確実であること」)を、
- ルカが書き記す記録を読むことによって、比較照合し、信頼に足る確実なものであることを書の受け取り人であるテオピロ自身が納得できるようにするため(「これによって十分に知っていただきたいため」)
である。
つまり、
- 使徒や弟子達の宣教の伝承
- 多くの人々が書き記した記録(福音書)
- テオピロに語られていた宣教のことば
を踏まえたうえで、ルカは自身の言葉と表現を使って、テオピロの信仰を助けるためという明確な目的のために、『ルカによる福音書』と『使徒行伝』を書き記したのである。少なくともルカの考えでは、『ルカによる福音書』と『使徒行伝』は、テオピロの信仰の助けに「必要十分かつ最適の内容」だと判断しうるものだっただろう。
この事実は、テオピロとは人種も文化も立場も異なる私達に何を意味するのだろうか。それは、新約聖書のそれぞれの書を読むにあたって、各自の動機や背景、目的をもった書として、通読することの重要性である。
聖書研究などによってその知識が増えていくと、一節の聖句だけ読んだり、その一節と他の書の一節を比較・関連付けしたりするようになる。それはそれで合理的なのであるが、時には本来の目的から外れて引用してしまう危険性も潜んでいる。「縦横無尽な引用」や「既知の概念による総括」は、それぞれの書の性質や目的を十分念頭におき、それらを「土台」と「境界線」とするものでなければならない。
『ヨハネによる福音書』も、独立した書として明確な目的(「イエスは神の子キリストであると信じるため」「そう信じて、イエスの名によって命を得るため」)を内在的に備えている。そしてその目的は、イエス・キリストが旧約聖書について語っている目的(「この聖書は、わたしについてあかしをするものである」「命を得るためにわたしのもとに」)と合致する。
ヨハネ5:39-40;46-47
39 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。
46 もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。
47 しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」。
ヨハネ20:30-31
30 イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。
31 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。
聖書の外からの借り物の概念によって聖書を「解剖」するのではなく、聖書自身が心を開く者に語りかけてくるイエス・キリストの命の声に、遜って耳を傾けていこう。
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