an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生けるキリストを求めて(34)贖われた「笑い」

創世記21:5-7

5 アブラハムはその子イサクが生れた時百歳であった。

6 そしてサラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。

7 また言った、「サラが子に乳を飲ませるだろうと、だれがアブラハムに言い得たであろう。それなのに、わたしは彼が年とってから、子を産んだ」。

 「笑い」はシンプルな現象なようで、人間の内面の複雑さを実に見事に反映している。赤ちゃんの純粋な笑顔から、突発的笑い、緊張を解くための意図的笑い、社交的な笑い、他者を攻撃する嘲笑、さらに複雑な自嘲的笑いなど、人間は様々な笑いを使い分けている。

 上に引用したサラの笑いは、「イサクの誕生」というあり得ないことが実現した達成感からくる喜びであり、主なる神に対する感謝の気持ちも含まれている。また長期間に及んだ期待と不安の精神状態から解放された喜びの要素も見受けられる。

 しかしサラの笑いも、その一年程前には所謂「鼻で笑う」ような嘲りを含んだ笑いだったのである。

創世記18:9-15

9 彼らはアブラハムに言った、「あなたの妻サラはどこにおられますか」。彼は言った、「天幕の中です」。

10 そのひとりが言った、「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。

11 さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。

12 それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。

13 主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。

14 主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。

15 サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。 

 サラが、心の内側に隠れていることを知る神に、その不信仰からくる笑いを指摘されて恐れ、慌てて打ち消している描写が実にリアルで興味深い。不信仰と嘲りの霊が密接な関係を持っていることは聖書の様々な箇所が啓示している。(関連記事:あざけりの霊 - an east window 参照)

 主なる神の約束の言葉に対して同じように心の中で笑ったアブラハムに対しては、主から戒めの言葉がなかったのは、サラと同じように驚きと半信半疑の反応しているものの、アブラハムの笑いの中に嘲りのニュアンスがなかったからではないだろうか。

創世記17:15-21

15 神はまたアブラハムに言われた、「あなたの妻サライは、もはや名をサライといわず、名をサラと言いなさい。

16 わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう」。

17 アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」。

18 そしてアブラハムは神に言った、「どうかイシマエルがあなたの前に生きながらえますように」。

19 神は言われた、「いや、あなたの妻サラはあなたに男の子を産むでしょう。名をイサクと名づけなさい。わたしは彼と契約を立てて、後の子孫のために永遠の契約としよう。

20 またイシマエルについてはあなたの願いを聞いた。わたしは彼を祝福して多くの子孫を得させ、大いにそれを増すであろう。彼は十二人の君たちを生むであろう。わたしは彼を大いなる国民としよう。 

21 しかしわたしは来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てるであろう」。

 非常に重要な点は、主なる神が「名をイサクと名づけなさい」と指示していることである。「イサク」は「彼は笑う」という意味である。おそらく主なる神は、アブラハムとサラが自分達の息子の名前を呼ぶ度に、「不信仰から生まれる嘲笑」が奇蹟によって「喜びと感謝に満ちた笑い」に変えられたことを思い出すことができるようにと、愛の配慮によって指示したのではないだろうか。