an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生けるキリストを求めて(21)「善」という名の誘惑

 生けるキリストを求めて(20)アブラハムの旅立ち - an east windowにおいて考察したように、跡継ぎが与えられていなかったアブラハムは、甥のロトやダマスコの奴隷エリエゼルをある意味、「妥協策」と考えていたことを書いた。しかしアブラハムのストーリーを読むと、カナンの地の飢饉から逃れるためエジプトへ下った時に買った女奴隷ハガルも、主なる神がアブラハムに対して子孫を与えるとしていた約束の実現を待ち望むことから、アブラムとサライの信仰の目を逸らす「誘惑」となってしまっていたことが理解できる。

創世記16:1-3

1 アブラムの妻サライは子を産まなかった。彼女にひとりのつかえめがあった。エジプトの女で名をハガルといった。

2 サライはアブラムに言った、「主はわたしに子をお授けになりません。どうぞ、わたしのつかえめの所におはいりください。彼女によってわたしは子をもつことになるでしょう」。アブラムはサライの言葉を聞きいれた。

3 アブラムの妻サライはそのつかえめエジプトの女ハガルをとって、夫アブラムに妻として与えた。これはアブラムがカナンの地に十年住んだ後であった。

 人間的に言えば、甥であったロトや奴隷エリエゼルがアブラハムの名を継ぐことは十分あり得ることだったし、女奴隷とはいえ、自分の子であったイシマエルが跡継ぎになっても良かったはずである。しかし神の計画においては、アブラハムの跡継ぎは妻サライから生まれてくるイサクでなければいけなかったのである。

創世記15:2-4

2 アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。

3 アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。

4 この時、主の言葉が彼に臨んだ、「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。

創世記17:18-21

18 そしてアブラハムは神に言った、「どうかイシマエルがあなたの前に生きながらえますように」。

19 神は言われた、「いや、あなたの妻サラはあなたに男の子を産むでしょう。名をイサクと名づけなさい。わたしは彼と契約を立てて、後の子孫のために永遠の契約としよう。

20 またイシマエルについてはあなたの願いを聞いた。わたしは彼を祝福して多くの子孫を得させ、大いにそれを増すであろう。彼は十二人の君たちを生むであろう。わたしは彼を大いなる国民としよう。

21 しかしわたしは来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てるであろう」。  

 主なる神は、エリエゼルの時もイシマエルの時も、アブラハムが提案した「妥協案」に対して、「NO」と却下し、イサクを授けるという御自身の計画を約束している。

 一般的に『善は最善の敵である』と言うが、信仰の道においてはまさに人間的な判断による「善」が、神の備えて下さる「最善」から目を逸らす強烈な「誘惑」となり得るのである。

 イエス・キリストの地上の生涯においては、その誘惑が最も巧妙な形で彼の心を攻撃していた。御子は荒野においてサタンから誘惑を受けた時、石をパンに変え、天使に命令し、全世界を掌握することができる程の「神の御子としての力と権威」を証明してみせることもできたはずである。しかしイエス・キリストは、父の御旨に従うために、自分自身のために権威を用いることを拒否した。

マタイ4:1-10

1 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。

2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。

3 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。

4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。

5 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて

6 言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。

7 イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。

8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて

9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。

10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 

 また民衆が御子を王にしようとした時、それを受け入れても決して偽りとはならなかった。実際に彼は「王の王」なのだから。しかし彼は、地上の王という妥協よりも十字架の死を選んだ。

ヨハネ6:15

イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。 

マタイ27:42

「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。 

 使徒ペテロが「十字架の死」を否定したとき、「確かに、なぜこの私が呪われた死を通らなければならないのだ」と意見を合わせることもできたし、ゲツセマネの園で十字架の死ではなく、人々が求めていたメシアのアイデンティティーに逃げ込み、生き延びる道を選ぶこともできた。しかし彼は、地上の一時的栄光よりも、父なる神の永遠の計画の成就を選ばれた。

ルカ22:39-44

39 イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。

40 いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。

41 そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、

42 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。

43 そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。

44 イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。

 御子が自分自身のための「善」ではなく、全人類のための「最善」を選ばれたことによって、救われる可能性すらなかった人間に、「最善」の選択が与えられたのである。