an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

生けるキリストを求めて(11)アベルの血

創世記4:10-12

10 主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。

11 今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。

12 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。 

 人類最初の家族内で起きた人類最初の殺人事件。このエピソードにおいて、弟アベルの言葉は一言も書き記されてはいない。実の弟を殺したカインの傲慢で自己愛に膨れ上がった言葉は書き残されているにも関わらず、アベルは何も語っていない。まるで「ほふり場にひかれて行く小羊のように」(イザヤ53:7)。

 しかしそのような寡黙なアベルの血が流された。そしてその血の声が、土の中から創造主なる神に叫んでいたのである。勿論これは活喩であって、実際には肉体的には殺されたがアベルの魂が神の前で生きており、神に正義を求めていたことを啓示している。これはカインにとって良心が引き裂かれるような啓示だったはずである。そのアベルの血によって土地は呪われ、カインにとって不毛で拒絶的なものになってしまった。

 このアベルの死、そして神に向かって叫んでいた血は、世の罪を取り除く神の子羊として十字架の上で命を捧げられた御子イエス・キリストの死、父なる神の前で信じる者の義を宣言するキリストの血の予型である。しかし御子の血は、神の前で「叫んで」はいない。静かに、しかし力強く語りかけているのである。

へブル12:24
新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。

 またその語る言葉は、アベルの血の場合のように神の前で罪人の対する「正しい神の裁き」を訴え求める声ではない。なぜなら十字架の死によって、罪に対する正しい裁きはもう執行され、神の義が啓示されたからである。

ローマ3:25,26

25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、

26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。

 それゆえ、父なる神の前で力強く語る御子の血のメッセージは、信じる者に対する「赦し」である。

 さらに、アベルの血によってカインの住む土地が呪われ、不毛になってしまったことは、キリストの十字架の死によって、この世が共に十字架に架けられ、そのままでは神の栄光を表すことができなくなってしまったことの予型である。使徒パウロはこう書いている。

ガラテヤ6:14

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。

  しかしキリストが復活したように、もし信じる者が復活したキリストに自らの魂を委ねるならば、キリストの復活の命の力によって神の栄光を表す者として造り変えられるのである。

ローマ6:6-13

6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。

7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。

8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。

9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。

10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。

11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

12 だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、

13 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。