an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

不確かさの中に働きかける十字架の霊

 今までこのブログでイエス・キリストの地上の生涯について、以下のシリーズにおいてそれぞれ「生誕」と「故郷」、そして「十字架の死」に関して考察を共有してきた。

 これらの聖書を基にした考察を踏まえて辿り着く帰結は、聖書がイエス・キリストの生まれた日は勿論のこと、その年も、また育った町についても、さらに十字架に架けられ死んだ日に関しても、私達の探究心を満たすような形では啓示していないことである。このような啓示は、現代人のメンタリティーにとって非常に「不正確」で「当てにならない」ものに映る。だから聖書を信じない者は厳しく批判し、多くの信者は「アンタッチャブルなテーマ」として見て見ぬふりをし、牧師や教師は時にかなり強引な説明で疑問を持つ者を納得させようとする。

 「福音書記者たちが書いたオリジナルでは間違えがなかった」という説明も、そのオリジナルが現存しない以上、疑問をもつ者にとっては単なる詭弁にしか思えないであろう。

 しかしもし逆に全てのことが私たちの探究心が望むように明確に記述されていたとしたらどうだろう。イエス・キリストが生まれた日時、季節、年、生まれた場所の緯度経度、育った町の正確なポジション、十字架に架けれた年や日、それらの全てがもしきっちり聖書に啓示されていたら、それによって人間の心はより神の福音を信じるようなるだろうか。それらの知識によって私たちの信仰は増すのであろうか。

 主なる神は、私達人間の最も崇高なる要素の一つである「知性」すらも、罪によって汚染されていること、だからその「知性」による判断そのものを土台にするのではなく、ただ「信仰」によってのみ神を真に知り、交わることができることを示すために、このような啓示の方法をあえて選ばれたのではないだろうか。

 自分が如何なる目的で地上に来られたのかを完全に知っておられたにもかかわらず、イエス・キリストは十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれた。全人類の罪に対する律法の呪いを背負っていたが故である。しかし知性と精神の混乱すら私たちの代わりに背負っていた御子は、その死の間際にこう叫ばれた。

ルカ23:46

そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。  

  この御子の十字架の霊が働きかけるので、たとい私たちがあらゆる無知と無自覚と混乱と不確実さと人間的制限の中で苦しみ喘ぐとも、信仰によって父なる神の愛の手に自らの魂を委ねることができるのである。