ナザレの謎(4)道、そして真理
記事(2)と(3)ですでに、日本語訳聖書の中で「ナザレ人」と訳されているギリシャ語「ναζωριαος NAZORAIOS」またその語尾変化した言葉が、新約聖書において19回使われており、また当時のパレスチナ地方で一般的に使われていたアラム語においては、それに対応する単語が「NAZORAI」であると書いた。
そして「NAZORAIOS」を「ナザレ村出身の者」と言う意味で「ナザレ人」と訳することは、文法上の誤りであることも書いた。「ιησους o ναζωραιοσ Iesous o nazoraios」は、英語に変換して言うならば、キング・ジェームス訳にあるように「Jesus of Nazareth」ではなく、「Jesus the Nazarene」である。
使徒パウロがペリクス総督の前で自らを弁明した言葉の中に、その「NAZORAION」が神を畏れる者の歩むべき「道」、つまり霊的・倫理的教えに基づいた価値観そのものであり、使徒パウロのことを訴えていた大祭司アナニアやテルトロにとっては、それが「hairesis 異端、セクト」と定義されるべき存在だったことが啓示されている。
使徒24:14
ただ、わたしはこの事は認めます。わたしは、彼らが異端だとしている道にしたがって、わたしたちの先祖の神に仕え、律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ、
四世紀の教父サラミスのエピファニウス(Epiphanius of Salamis - Wikipedia, the free encyclopedia)は、彼の著書『PANARION』の中で、ユダヤ人にとっての異端「NAZORAION」に対する呪いについて言及している。
29.9.2
彼ら(ユダヤ人)は一日に三度、「神が『NAZORAION』を呪いますように」と唱える。
所謂『フィリポによる福音書』と呼ばれているグノーシス文書には、興味深い記録が残っている。
フィリポによる福音書47
以前いた使徒達は、彼のことを「イエス、ナザレ人、メシア」と呼んでいた。
「ナザラ」は「真理」、つまり「ナザレ人」は「真理の者」である。
勿論これらの記録には聖書と同様の権威は与えられていないが、割れた鏡のように断片的にではあるが、ある実体をおぼろげに映し出しているように思える。
使徒22:3,4
3 そこで彼は言葉をついで言った、「わたしはキリキヤのタルソで生れたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった。
4 そして、この道を迫害し、男であれ女であれ、縛りあげて獄に投じ、彼らを死に至らせた。
「道」「新しい道」(使徒19:23)、そして「真理」もしくは「真理に属する者」というアイデンティティー。そしてユダヤ人にセクト・異端として呪われ、迫害されていたあるグループ。それが「NAZORION」の姿である。
「道」「真理」ときたら、聖書を知っているものなら誰でも、イエス・キリストの言葉を思い出すだろう。
ヨハネ14:6
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
意味深いことは、ユダヤ人から「NAZORION」という異端グループの教祖と訴えられていた使徒パウロ自身は、彼の多くの書簡の中で一回もイエス・キリストが育った土地の名に関して言及していないことである。
次回は、あるイタリア人研究家の著作を通して、イエス・キリストの本当の出身地ではないか考えられている町に関して書いてみたい。
追記(2014年12月11日)
現代のイスラエル人は、クリスチャンのことを「Notzirim ノツリム」と呼ぶらしい。(Nazarene (title) - Wikipedia, the free encyclopedia "Notzrim" is the modern Hebrew word for Christians (No·tsri, נוֹצְרִי) )またシリヤ語やアラビア語でも、同じ派生語を使っているらしい。勿論、彼らがそれらの言葉を使う時、「ナザレ出身の人々」という意味で使っていないことは明らかである。
(5)へ続く