an east window

夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまで

世界福音同盟の代表団が教皇フランシスコと会合(2)

 世界福音同盟の代表団が教皇フランシスコと会合(1) - an east windowを読まれた方の中には、私が「教会の一致」という崇高な目標と努力に対して根拠もなく批判し、反対して宗派間の分裂を扇動しているかのような印象をもった方もいるかもしれないが、私の目的はそれ程積極的でもないし、どちらかといえば防御的である。イタリアに長年住み、イタリア人の中で生活する中で、カトリック教会について福音的な立場から語ることが何を意味するか、経験を通して多少なりとも把握しているつもりである。私が望んでいることは、具体的な出来事を通して、イエス・キリストの真理に従っていきたいと願っている方々と共に、反省と省察の機会を分かち合いと考えているだけである。

 今回の会合は、2014年の11月6日に突発的に発生した事象ではなく、前世紀から続く「エキュメニカル運動」における一段階で、起きるべくして起きた事象である。このブログでこの運動の推移を全て書き記すことは時間的にできないが、ここ約20年間における本質を表していると思う事例を書き記してみたい。

 1965年以降、第二バチカン公会議の決定を基に、カトリック教会は非公式な形で自分達の教派以外と「対話」の姿勢を示してきた。1994年にアメリカのカトリック教会と福音派教会が共同で、『Evangelicals and Catolics Together』という名の書類を公表した。その宣言書は、「罪人の義認」という福音の最も重要な核とも言える教義も扱っているものであった。その宣言書の中の5ページには、「"We affirm together that we are justified by grace through faith because of Christ." 私たちは共に、キリストの故、信仰を通して、恵みによって義認されたことを明言する」とある。

 この書類の署名者や推奨者の名前のリストを見ると、福音派の中から非常に著名な人物の名(例えばJoh WhiteやCharles Colson、Bill Bright、J.I. Parker、Pat Robertsonなど)を見て取れる(Evangelicals and Catholics Together - Wikipedia, the free encyclopedia)。

 上述の義認に関する宣言内容だけを読むと、福音的に問題無い様に思え、カトリック教会の教義と福音派の教義が核心的な所で一致している、と考えられるかもしれない。しかし、ちょうどこの宣言書が公表される二年前に、カトリック教会が自身の教義の全てを公式な形でまとめた、900頁にも及ぶ『カトリック教会のカテキズム』を発行しており、その中には以下のように明確な形で書かれている。(残念ながら日本語訳を見つけることができなかったので、イタリア語版から引用するが、和訳が出版されているので興味がある方は確認していただきたい。)

1992 La giustificazione ci è stata meritata dalla passione di Cristo, che si è offerto sulla croce come ostia vivente, santa e gradita a Dio, e il cui sangue è diventato strumento di propiziazione per i peccati di tutti gli uomini. La giustificazione è accordata mediante il Battesimo, sacramento della fede. Essa ci conforma alla giustizia di Dio, il quale ci rende interiormente giusti con la potenza della sua misericordia. Ha come fine la gloria di Dio e di Cristo, e il dono della vita eterna:

(Part.3 Sez.1 Cap.3 Art.2 -1 1992)

 ここでは、「義認は、信仰の秘跡である洗礼によって授与される。それは私たちに対する神の義を確実なものとし、御自身の憐れみの力で私たちを内面的に義とする。」とある。カトリック教義が、「義認」よりも「義化」という表現を選ぶ根拠がここでも暗示されている。つまりカトリックの教義によれば、人は七つの秘跡の一つである「洗礼」を受けることで神に「義」とされる、というのである。

 勿論、多くの読者の方にとっては、そのような言葉の使い方の違いに固執することは意味がないと思えるだろう。しかしむしろこの信仰義認に関する認識の違いによって、カトリック教会は宗教改革者マルチン・ルターを破門し(1521年)、トリエント会議(1545年ー1563年)の決定を通して、「信仰のみによる義認」を信じ教える者をアナテマ(追放や破門)に定めたのである。

 この「義認」に関する教えは、バチカン第二公会議(1962年ー1965年)によって承認され、それが前述の『カトリック教会のカテキズム』によって公式な教えとして取り扱われているのである。

 それでは、1994年に発表された『Evangelicals and Catolics Together』は、カトリック教会の教義が、非公式な形で微妙に福音派の教義に歩み寄ったことを示していたのだろうか。福音派の署名者や推奨者は、信仰義認に関するカトリック教会の教義史を知りつつも、カトリック教会の「教会の一致のための努力」の顕れとして、評価し、同調した。

 しかしその幻想を見事に打ち壊す出来事が、数年後に起こるのである。

 

(3)へ続く